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協奏交響曲覚え書き(3) [MOZART]

 仕事の都合で欠席続きだったところ、ようやくにオーケストラの練習に出られました。メンバーの方々から「久しぶり」と言われる始末。

 協奏交響曲を練習しました。もう弾きながらうっとり。一小節全音符でのばすところにも音楽を感じてしまいます。で、心をこめて美しい花園のイメージで神経使ったボウイングで弾きます。

 しかし、しかし、しかし。このkv297bを統計処理的分析したロバート・レヴィンによれば、この作品はソロパートこそモーツァルトの原曲に極めて近いが、モーツァルトの書いたオーケストラパートはおそらく失われていて、誰かが後世に書き起こしたものである可能性が高い。というのです。

 たしかにクレッシェンドやディヴィジが多く出てくるし、モーツァルト常套のヴィオリストを喜ばせる対旋律の内声もほとんど姿を見せません。指揮者の先生も「和声的な霊感がない」と。

 しかし、美しい曲だ!結局譜面を音にする時には無心です。だが、これでいいのか?もうすこし批判的にパート譜をとらえてもいいんじゃないかと思いながら練習終えて家に向かいました。

協奏交響曲kv.297b(k.anhC14.01)覚え書き(2) [MOZART]

 複数の管楽器による協奏曲~これは協奏交響曲の形でもあります。古典派の時代にかなり作られていて、後の新古典主義が後期ロマン派の最後の方に顔を出すときにも創作されているのですね。それらの曲、楽器をやっている奏者にとっては、結構重要なレパートリーだったり教材だったりするのですが、一般的なリスナーにとっては秘曲。

 アルブレヒツベルガー、クロンマー、フンメル、R・シュトラウスの秘曲を聴きました。知らない曲ばかり。どうなることかと思いきや、音楽の楽しさを存分に味わったアーベントになりました。

 クロンマーとRシュトラスの協奏曲はそれぞれ、名人の技量をたっぷり味わえる曲です。

 クロンマーの2本のクラリネットの曲はアクロバティック、これでもかこれでもかという速いパッセージを唖然とするような指づかいで奏していきます。時代的に19世紀の初頭の作品、ベートーヴェンのような響きのする曲です。山本教授の正確で表情豊かなクラリネットも見事だが、ヴェンツェル・フックス教授のクラリネットにはこれに「遊び」が加わっています。楽譜との遊び。協奏曲はとくに「遊び」の側面が表れやすい曲種のようです。

 そしてこの演奏。音楽ってたいそう楽しいものだということが存分に伝わってきます。同行いただいた感受性の豊かな若い友人も、この演奏を「すごい」と言って喜んでいました。

 R・シュトラウス最晩年の作、クラリネットとファゴットのための協奏曲は、第1楽章がクラリネット重視、第2楽章がファゴット重視、フィナーレは両ソロ楽器を対等に扱うというバランスのとり方で書かれています。さらにバックのオーケストラがソリとリピエノの2群に分かれていて、管楽器のソロと弦のソリで共同作業をする部分もあります。甘美ですが、虚無的なところもある曲。とくにクラリネットの弱音の効果が見事です。新古典主義の作品。

 指揮がハンスイエルク・シェレンベルガー。骨格のしっかりした音楽づくりで、ソロへの寄り添い方も息が合っていました。このベルリン・フィル首席奏者だったオーボエの巨匠、指揮者としてもかなり有能でいい音楽をやる人ですね。藝大チェンバーが爽やかな弦楽合奏を聴かせました。シェレンベルガー教授は、フンメルの序奏主題と変奏ではソロ。山本教授が指揮をしましたが、かっちりした音楽づくりでした。弦楽合奏をピタリと合わせる指揮。

 シュトラウスにはハープが、最初に演奏されたアルブレヒツベルガーのアルトトロンボーン協奏曲ではチェンバロが入っていて、こういう楽器奏者が自前で揃ってしまうのがさすが藝大です。11日、嵐が去った日、藝大奏楽堂で。

協奏交響曲KV.297b(K.AnhC14.01)覚え書き(1) [MOZART]

 18世紀・啓蒙時代のヨーロッパで、最も後世に影響力の大きいオーケストラが、選挙候カール・テオドールの宮廷楽団であったことに異論は出ないであろう。

 この楽団によせて書かれた作品の作曲者たちはといえば、ひとくくりにされて「マンハイム楽派」と呼ばれてしまっている。モーツァルトの手紙によって、楽団の名手の方が、ずっとよく知られているのである。

 モーツァルトが1787年に母を伴っての求職「マンハイム・パリ旅行」は波乱に富みまさに過酷で悔悟の情さえ生じさせるものであった。しかし、マンハイムで管楽器の名手たちに出会い、彼らに触発され、彼らのための曲を書いたことは。モーツァルトのこの時期の音楽を考えた時、最も重要な部類に属すると思われる。「フルートのヴェンドエリング、オーボエのラム、ホルンのプント、ファゴットのリッター」のために「パリのコンセール・スピリチュエルで演奏するサンフォニー・コンセルタント」を書いたという記述がモーツァルトの手紙にある。

 しかし、様々な理由から(やっかみによる同業者の妨害?)この作品は演奏されず、譜面も行方不明になった。しかも突如として、編成をオーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルンのソロに変えた楽譜が、19世紀・1860年代になって、モーツァルト研究者として名高いオットー・ヤーンの蔵書から出てきた。

 マンハイムのオーケストラは初めてクラリネットを標準装備としてもった楽団である。モーツァルト没後の比較的早い時期に、編成を変えて演奏される機会があって、そのときに使われた編曲譜が現在に伝わっているらしい。モーツアルトの晩年(!)にはクラリネットのクインテットもコンチェルトもある。ケーゲルシュタット・トリオもクラリネットが主役だし、交響曲第40番に対しては、わざわざクラリネットのパートを書き足した版まで作っている。

 これらのことから、もしかしたら、kv.297B→kv.297bへの編成の変更に作曲者もかかわっていたのではという空想にさそわれる。

 しかし、パート譜を見てみると、モーツァルトではあまり例を見ないディヴィジョン(同じパートを2分割して別々の奏者が弾く)が目立っている。そして、すべての楽章が変ホ長調となっている。こういう例もモーツァルトにはない。ケッヘルの第6版で与えられた「c」は「疑作ないし偽作」の意味である。海老沢敏先生もkv.297b(オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン;譜面が伝わっている方)はkv.297B(フルート・オーボエ・ファゴット・ホルン:楽譜が失われている:原曲)の「遠い影にすぎない」としている(『モーツアルト大全集第5巻』小学館)。

 勿論、協奏交響曲が造られたことは間違いなく、その時期はモーツァルトのマンハイム・パリ旅行中である。ケッヘル番号がそれを示すものとなっている。これは余談だが、現代きってのモーツァルトの碩学、ニール・ザスラウが、責任編集に当たるケッヘル・カタログ「第8版」がそろそろ刊行されるころである(すでに刊行された?)が、この第8版では単にKV.297となっているのであろうか

 私がこの作品に親しんだのは、学生時代に高田馬場にあったレコード店タイムで「MOZART AU PARIS」というエラート盤の2枚組LPを買った時からである。ピエルロ(オーボエ)・ランスロー(クラリネット)・オンニュ(ファゴット)・クールシェ(ホルン)という往年のフランスを代表する名手がソロをつとめる色彩の豪華版であって、現在でもこれを凌駕する演奏に出合った経験がない。バックはまだ30代だったウィーンの指揮者グシュルバウアー~彼はその後読売日本交響楽団を振りに何回も来日している。私が聴いた、第9を振る彼は、淡々と音楽を運ぶ手堅い指揮者だった~と、バンベルク交響楽団だった。

 また、いつ頃だったか、めったに日本のオーケストラに言及した批評を書かない吉田秀和先生が、日本のオーケストラの高水準に、音楽愛好家はもっと気付いた方がいい、という主題で、N響をとりあげたことがあった(朝日新聞)。そのN響の取り上げた曲が、kv.297bだった。吉田先生がほめていたのは、管楽器の名手たちのこと。オーボエ小島庸子氏。クラリネットが浜中浩一氏、ファゴットが霧生吉秀氏、ホルンが千葉馨氏だったと思う。千葉さんと浜中さんは鬼籍に入られ、天上で、モーツァルトとふざけあったりしているかもしれない。私がスィトナー指揮でコンサーとアリアを(カサピエトラのソプラノで)聴いたころだろうか?ウェラ―指揮でレクイエムを、リり・クラウスが弾く23番のコンチェルトを聴いたころだったろうか?

 そして、ベームとウィーンフィルの名手が1976年に録(い)れた演奏である(オーボエ;ワルター・レーマイヤー、クラリネット;ペーター・シュミードル、ファゴット;フリッツ・ファルトゥル、ホルン;ギュンター・ヘーグナー:DG盤)。ひなびた風情のクラリネットと、驚くほどの親和性を聴かせるファゴットとホルン。パッセージの歌い出しを担当することの多いオーボエの軽やかさ。リズムは腰の強いバネのようにしなやか且つ重厚だ。第2楽章のじっくりと遅いテンポに、晩年のベームはどんどんテンポが遅くなって云々の批判めいた言質が頭をかすめるが、しかし、譜面を見るとアダージョとある。このベームがとったテンポはまさに全曲の要になっているアダージョ、ではないか。第3楽章の変奏曲ではウィーンフィルのソリストたちの気品と素朴さと名人芸に酔いしれる思いがする。

 そうそう、第1楽章の再現部の直前、ぐっとリタルダンドして間をとってからテーマの再提示が行われているのには誰でもすぐ気付くでしょう。ここにベームの見出したモーツァルトの不意打ち的な、一筋縄ではとらえられない音楽の秘密を聴くのは私だけだろうか?

 さて、この作品を10月にお世話になっている市民オーケストラで演奏する。私にとってモーツァルトの作品を弾けるというのは無上のよろこびである。おそらく迷いもなく、この作品をモーツァルトの真作と考えて、作品世界に入り込んでいくことになると思われる。そろそろ初回練習日も近い。楽器をケースから出してさらわなくては・・・

大作オラトリオ「救われしべトゥーリア」kv.118(74c) [MOZART]

 このモーツァルト15歳の、旧約聖書第2小典「ユディト記」による、ピエトロ・メタスタージョの台本に音楽をつけた宗教劇。じつに大作というにふさわしい。全2部からなる作品の演奏に2時間強を要し、内容は重く、音楽は実に緻密に書かれている。

 多神教アッシリアの軍勢に迫られたイスラエルの街ベトゥーリアを、神の加護を信じた美貌の寡婦ジュディッタが救う話である。

 美貌の女性が髭だらけの戦士の首を提げている絵をご覧になったことがあるだろう。そのジュディッタは敵陣にひとり赴いて酒宴に参加し、酔いつぶれた敵方の大将オロフェルネを剣で刺し、首をかき切ってべトゥーリアに奇跡的に帰還する。

 アッシリア勢は総崩れになって退散するが、そのときの混乱で味方同士で傷つけあったり殺しあったりしてしまう。この出来事の一切を見ていた、べトゥーリアの隣に住む異教徒アンモン人のアキオールは、神は唯一だという信仰に帰依するに至るという筋書きである。

 ジュディッタが首を持ち帰り、べトゥーリアで歌うアリアの歌詞が論争の的になった。歌詞は
「囚人が恐ろしい場所から 
すがすがしい日光のもとに戻ってくると、 
陽光に目を閉じる あれほどあこがれていたのに。

でもこうしてやがては 
明るい光を耐えることができるようになる。
彼の目を眩ませた輝きが
彼を元気づけ、彼の導き手となるように。」(海老沢敏氏訳)

 いわば、北鎌倉の円覚寺が元寇で倒れたつわものたちの菩提を敵味方のべつなく弔った、というのがこれに近いだろうか。異教徒に殺されても、異教の導きで魂は救われるというわけである。

 このアリアに、アルフレート・アインシュタインは異を唱え、カルル・ド・ニは劇全体と矛盾しないと見る。『変貌するモーツァルト』(岩波書店)によれば、海老沢先生もド・ニの見解を支持されている。

 しかし、血なまぐさい話である。100年前には第一次大戦を、そして、20年あまりの間戦期をはさんで再び大量殺戮が起こった。軍民310万人の同胞が犠牲になった。外国人の軍民への殺戮はその数の比ではない。そして、このオラトリオのレシタティーヴォは、1945年の8月9日以降、大陸での駐留軍退逃の時に何が起こっていたかをリアルに思い出させすらする。

 これらの世界大戦を知る21世紀のわれわれには、なかなかすなおに受け止められる内容ではない。

 しかし、モーツァルトは軍隊行進曲も書いて(書かされて)いるし、そのなかには、軍の勝利や合戦の描写に近い音楽もある。宮廷音楽家であり、「べトゥーリア」を作った15歳(!!)のときも彼は教皇領ザルツブルクの副楽長の息子だった。そういう作曲者が置かれていた立場から自由に作品や演奏を見るのが、鑑賞の態度でもあろう。

 すると、音楽の緻密な作り(とくに第2ヴァイオリンに意味深い動きがふんだんに与えられている)と、バッハのコラールを思わせる合唱の使い方、とくに掛留(ソプラノとバスは次の和音に移行しているのに、前の和音の声部が引き伸ばされて残っている和声の書き方)の扱いがすばらしい。声域のわりふりなども、間然とするとことろがない。立派な大作を聴き終えたという感想が残る。

 ただし、歌詞を見ながら、また「ぺトルッチ」のサイトで旧全集のスコア(6番以降に現行のナンバーとずれがあり、声楽パートが私の所持盤ではかならずしも同じ音に歌われていない)を見ながら聴き進るめると、明るい、あるいは純粋、天真爛漫、天衣無縫の音楽には聴こえてこない。調の選び方にしても、♭4つのヘ短調やホ短調などのモーツァルトではあまり出てこない調が使われていることにも意味がありそうである。

 べトゥーリアの街の頭領オツィアがペーター・シュライヤー。劇的。敵陣に赴くジューディアはアルトのハンナ・シュヴァルツ、これが堂々とした感じで実によくマッチしている。回心する異教徒アキオールがワルター・ベリー。いつもながらの美声。オツィアにべトゥーリアの街の窮乏を訴えるアミタールにイレアナ・コルトバス。滋味あるソプラノ、など。万全の布陣だ。

 合唱と管弦楽はザルツブルク室内合唱団(合唱指揮ルーベルト・フーバー)、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団。

 指揮がレオポルト・ハーガー。ハーガーは1991年のモーツァルトイヤーでウィーン・フィルを振ったのをリハ・本番とも聴いた。リハの途中で、コンマスのウェルナー・ヒンクが帰ってしまったり、ピアンの翼をはずしたりとりつけたりしていた。音楽はカッチリしていた。暴れ馬みたいなウィーン・フィル相手に、手綱をとる感があった。しかし、今日聴いた盤の演奏は滑らか。破たんは全くない。

 そうそう、このとき、ウィーンのピアニスト、今は指揮もしているシュテファン・ヴラダーが25番のコンチェルトを弾いた。グラスハーモニカのためのアダージョでアンコールした。彼の日本デビューでもあったのだ。

 モーツァルテウム管弦楽団は現在はボルトン。前任のスダーンより前。ふた昔以上前の、(カール・ベームも健在だった)1978年の録音。グラモフォンライセンスのフィリップス盤(小学館モーツァルト大全集)。

バレンボイム、ウンター・デン・リンデンの「コジ・ファン・トゥッテ」 [MOZART]

BSでバレンボイム指揮による「コジ」が始まりました。オケの音が格調高く、しかも生き生きしています。

 お、70年代のヒッピーズもたいな格好で二組の男女が出てきた。フィオルデリージとドラベッラはスチュワーデスの設定?ユニフォームめいた朱色のミニのワンピースが、これまた70年代風。ハンモックらしきもので寝ている。あのころ物議をかもし出したスワッピングの設定でやるらしい。

 アコンパニヤートもすごく思い切ったリアリぜーションをしている。これは目を離せそうにないぞ。       

 ローマン・トレケルの哲学者が顔をひん曲げて、美声で「真理」をかたるのがいいですねえ。演出が卓抜。窮屈なお嬢様と、自由なヒッピーズの対比。故意は戯言というちゃばん。デスピーナがヒッピーたちにせりふのカンペを見せている。ああおかしい。かっこ悪いスーツ姿のグエルリモとドン・アルフォンゾの意表をついた格好も楽しい。

 音楽は格調高く、しかも自由。演奏の水準はきわめて高い。管楽器の劇的なうまさが光っています。これは見もの聴きものです。

 ②場になりました。
 
 プールから上がって日光浴をするお嬢様が「私たちの運命は変わってしまった。限りない苦しみが降りかかってきた」とうれしげに歌っています。そこに変装した恋人たちが砒素を仰ぎます。上半身裸だ。①場の最後ではブリーフ1枚になっていたぞ。客席から失笑が漏れていた。恋人のはだかなら見てわかろう物なのにお嬢様たちは気が着かない。

 さて砒素を仰いだふりをして恋人たちが倒れた。心変わりのときが刻々と迫る。オケの刻みが心のときめきを暗示しています。オケうまい。「お姿はすてきね」だって!脈を診ているがわからないとは世間知らずのお嬢さんだ。おおお嬢さんたちがパニックになってきた。そこにデスピーナ扮する医者が出てきた。メスマーの療法が出てきた。この瀉血でモーツァルトは絶命するのに・・・。ここではなんて面白おかしく曲をつけているのか。

 回復した恋人たちがいよいよスワッピングの本番にとりかかっている。でもお嬢さんたちは「名誉が赦しません」って言っている。音楽がすごく生き生きしている。でもこの絡み合いは子どもには見せられないかな?「モーツァルトってこんなにやらしかったの?」って言われるよね。

 2幕になりました。 

 デスピーナが「女性らしく恋を楽しまれては」って挑発している。「女も15歳になったら世の習いを知らなくてはいけません、うそも方便」って、その設定にはあまりにも無理がありますよ。お嬢様はどう見ても15歳には見えない!(これもオペラの面白さのうち)見えないのがミソ。ここで、お嬢様方が大人の恋のアバンチュールに出るのですから。おっつ。アコンパニアートがフォルテ・ピアノになっている。こういうところもこの演奏の心憎いところです。ありゃりゃ。妹の心変わりがお姉さまにも伝播してしまった。ここにつけられた旋律の軽やかさとちょっぴりまじめな感じ。モーツァルトはすごい。

 「届けておくれやさしいそよ風」クラリネットの伴奏が軽やか!でも何が始まるの?舞台はマリファナパーティめいてきているぞ。
 
 おおついに、告白しあう場面になった。この情愛につけた音楽の美しさ!(でもこれが虚偽なんです。人生ってそんなもんかも?)虚実皮膜論。

 フィオルデリージのコロラトゥーラの絶唱。男たちの恋人の心変わりへの嘆きの真に迫ったこれは相当な名演。コジといえば、70年代末まではベームにとどめをさすといわれたものですが、バレンボイム、さすがです。演出が奇抜で面白い。やりたい放題。いいんです。ベームは言いました。「モーツァルトには感傷をのぞくすべての感情がある」と。
 
 しかし、現代のジェンダーの常識からすると男3人の歌う「コジ・ファン・トゥッテ」の部分の扱いには異論もあるでしょう。
 
 結婚式の場面になりました。スワッピング夫婦はヒッピーズの格好をしています。マサイの戦士みたいなのが4人陣幕を支えています。なんじゃこりゃ。
 
 さあフィナーレになりました。ものごとは相対的なもんさ、親しいからこそいたずらもできるし、そこから学びもできるのさと教えるかのごとくオペラが終わります。舞台も壁に吸収されました。虚実皮膜論。
 
 フィオルデリージ=ドロテア・レシュアン(名演) ドラベラ=カタリーナ・マックローアー グエルリモ=ハンス・ミュラー・ブラッハマン ドン・アルフォンゾ=ローマン・トレケル デスピーナ=だにっら・ブルエラ バレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団と合唱団。2002年9月1日ベルリン国立歌劇場ライヴ。

「リンツ」をホグウッドとアカデミー・オヴ・エインシェントミュージックで聴く [MOZART]

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  1991年のモーツァルトイヤーの年の10年前に、カール・ベームが世を去った。同じころ、クリストファー・ホグウットは写真に示したモーツァルト交響曲全集の録音を進めていた。白水社から出ていた『モーツァルト18世紀への旅』掲載のインタビューの中で、ホグウッドは「今後のモーツァルトの演奏には2つの種類しかない。相変わらずのスタイルで行くか、古楽器を使って18世紀のスタイルで演奏するかのどちらかだ」と言っている。

 そのころ出た2枚組のLPを早速買って聴いたのものだった。魅了されたが、ではどう新鮮なのかは、よくわからなかった。その後、マリナ―・アカデミーと、ベーム・ベルリンフィルの二つの交響曲全集でモーツァルトを聴いてきた。

 中期からはエルネスト・ブール・南西ドイツ放送の選集、後期6大交響曲はクーベリック・バイエルン放送交響楽団、カザルス・マールボロ音楽祭、シューリヒト、ワルター、スイトナー、セル、カラヤンの音盤などが棚に増えていった。

 先週、渋谷のタワーレコードにたまたま足を運んだら、イタリア盤のホグウッド盤の全集が安く売られていたので、ようやく手に入れた。「2つめのスタイル」をてもとで確かめられるようになったわけである。

 その後、ピノックとイングリッシュ・コンソートなどの古楽系の全集が出て、ホグウッド盤はいわば先駆者的な位置づけになっている、もっといえばすこしスタイルが古いのかもしれないとおそるおそる聴いてみた。

 聴いたのは「リンツ」である。全曲、そうメヌエットさえもすべての繰り返しを励行している。通奏低音にチェンバロが入っている。対抗配置。

 弦の人数はだいぶ刈りこんである。だから、第1楽章で第1ヴァイオリンだけが1音だけ残り、他のパートが沈黙する部分などでは、ちょっと頼りないとも言えるかもしれない。

 管楽器ではオーボエの音が現代楽器と際立って違う。もちろんピッチが低いのは冒頭の音の記憶と異なるのですぐわかる。

 そいうい記述からすでに風通しのよい、各パートの動きがくっきり聴こえる演奏が想像できると思うが、その通り。ヴィオラの動きやセカンドヴァイオリンのくねくね動き回る音型、和声の変化がしっかり示されている。第1・3・4楽章のテンポ設定には意外性がない。しかし第2楽章のアンダンテは、速めで、ロマン派以前のアンダンテはだいぶ速いテンポであったという説に依拠したテンポである。

 学問的な演奏、と言っていいと思う。

 さらに音楽の段落にあたる部分が明示されていて、カラヤンのようなレガートで音楽がどんどん流れていくスタイルと対照的である。

 しかし、音楽が継ぎ足し継ぎ足しのように聴こえないのは、その段落の中にある楽句のフレージングがしなやかであり、一つ一つの音符への表情の与え方と次の音符への受け渡し方、つまりアーティキレーションも柔軟であるからだ。

 かつてこの演奏を聴いて、ベームのモーツァルトとの違いをあまり感じなかったのは、根本のところにホグウッドもベームも(しなやかな)「歌心」があって、そこに私が共感してたからではないか、と今回聴いて思った。

 

モーツァルトのハ長調~ディソナント・リンツを弾く(1) [MOZART]

 モーツァルトのハ長調は、明るく喜ばしい調なのだが、それは人間的というより超越的・天国的である。

 「リンツ」交響曲を半年かけて本番まで持っていく練習はスタートしたばかりだ。しかし、その3小節目のト短調→変ロ長調への転調で、打ちのめされてしまう。ここは♭の音程をとるのが難しい。8小節目から急に音楽の表情に陰りが出て、主旋律がファゴットに移る。このオーケストレーションの上手さにまた打ちのめされる。そして、10小節。私は間違えてGisの音を弾いてしまった。オーボエを聴いているとそれがコンソナントに聴こえたかららしい。指揮の先生に「聞いて弾いているのね。耳がよすぎる」といわれてしまった。ここは半音で音がぶつかる不協和音の部分。いきなりこういう音が出てくる。

 
 「リンツ」交響曲はモーツァルトが立ち寄ったリンツのトゥン伯の主宰で演奏会を開くことになったが、交響曲の譜面をもち合わせていなかった。そこでモーツァルトが4日間で一気呵成に書き上げてしまったとされている。それまでの祝典的な機会に彩りを添える定型的な交響曲の面影は全くなく、序奏がついた第1楽章、パストラルの音楽でありながら、トランペットやティンパニを雄弁に使い、暗い情緒にも傾斜する第2楽章。対位法の宝庫であるフィナーレなど才気があふれんばかりの名曲である。創作の意欲にあふれていてそれが一気に、ストレートにほとばしり出る。率直で生き生きした曲である。


 少年時代から私はこの曲が大好きで、学生時代には上野の東京文化会館音楽資料室に通って、ブルーノ・ワルターがこの曲をリハーサルしたLP「演奏の誕生」(CBSコロンビア!盤)をむさぼり聴いたものだった。ワルターの確信を持ったイメージと繰り返される「sing out!」。なめらかなリズム。今の演奏からみると多分にロマンティックである。ワルターがこの曲の不協和音に奏者たちをどう立ち向かわせたかは記憶がないので、いつかきっと上野に行って確かめてみたい。
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 KV.465の「不協和音」四重奏曲もハ長調である。序奏が型破りで解決しない和音が続くから「不協和音」と呼ばれることは周知のとおりだ。しかし、この曲なんという音楽だろう。半音階的な動きが全曲を覆い、不協和音の効果が幾通りも表れている。それはステーキにおけるペッパーの役割を遠く超えることも多い。

 
明るく晴朗と荒っぽく把握されがちの終楽章。第2テーマ後半、提示部ではト長調から26小節かけて半音階をはらむ音を連続させて、第2テーマ後半では変ホ長調に転調する。ここでも天気が急変して雲間から太陽が出た感じになる。さらに変ロ長調に曲を進め安定した上昇音階を第1ヴァイオリンに弾かせる。提示部の最後はドミナントのと行調で確保されるのだが、変ロ長調からト長調に至る転調句がアグレッシブでさえある。

 これが、私の愛聴盤クヮルテット・イタリアーノで聴くとあっという間に過ぎ去っていく。しかし、細心の注意とダイナミック感覚、テンポ感覚をもって。ペグレッフィの第2ヴァイオリンもファルッリのヴィオラも唖然とするくらい音が透明で、上手い。ロッシの美音チェロの歌心にもうっとりさせられる。ボルチアーニの名が現在でも室内楽コンクールの名に残って顕彰されているのも室内楽をやる人ならみんな知っているだろう。


 天才の多様性には天才の演奏家が対峙するのでないと、感動に達せない・・・とは考えまい。この二つの曲と当分じっくり向き合って弾いたり、読みを深めたりできる喜びを素直に味わった方がいい。和声的な分析を十分しつつ理解を深めたい。モーツァルトの音の置き方は尋常ではないからである。

 


モーツァルトをやりたい [MOZART]

 モーツァルトがやりたい。

 仕事を持っていると、何でもかんでも音楽ができるわけではありません。

 厳選していく欲求が出てきます。しかしオケの楽器を弾くアマチュアは一人で楽しめるほど上手くはないので(例外的に上手い人もいるが)合奏して音楽を楽しむ人が圧倒的に多いでしょう。

 わたしも昨年の冬から師匠に誘われて、音楽活動に復帰したのですが、昔より上手くなっているのか下手になっているかがよくわかりません。昔はドヴォルジャークのアメリカを弾いたのですが、今はとても弾けそうに思えませんから、下手になっているのでしょう。先日、師匠の指導で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章まで合奏団の第1ヴァイオリンを弾きました。音程の悪さに自己嫌悪。そして、胃で支えて背筋を伸ばしてフォルテをつくる、ができない。親指に圧力をかけて弓の重さでフォルテを出す傾向が消えません。最初にきついアタックがついてしまい、これはモーツァルトの音ではないです。師匠は「習得しましょう!飛躍しましょう!」と言ってはくれるのですが・・・

 ブログが「MOTART~」ですから、モーツァルトほど好きで共感し感動する世界はないのです。そうすると、たとえば師匠は「ベートーヴェンのカルテットをやろう」と言ってくれ、パート譜をドサッと渡されたのですが、自分を大事にすると「いや、僕にはモーツァルトをやらせてください。」とこちらの意思を伝えてもいいはずです。大人の趣味の世界ですからね。

 そういう思いを強くしたのは、ずいぶん前から練習はしてきていたヴァイオリンとクラヴィーアのためのソナタ・ト長調KV.301(293a)をひと月ほど前の師匠の楽団の合宿でピアニストの先生に合わせていただいたこと。そして今日、グリュミオーとクリーンの演奏でこの曲などKv.7版の番号でいう293のa~cと300a(有名なホ短調ソナタ)を聴いて、これが感動だという体験をしたこと。この世界にアプローチしないで生を終えることはできないななどとすら思ったことでした。

 すると合奏団とのお付き合いも削っていかざるを得ない・・・付き合いの良いお人よしのキャラクターを変えて、気難しいヲヤジへ。どうもこれはモーツァルトとは親和性がないイメージだなあ。こんなんで、ヴァイオリンとクラヴィーアのためのソナタを弾いていくなんて、どんな音楽になるのだろうか。だいいち実行できるのだろうか。

 そう迷った時こそ原点を確認が大事ですね。

 モーツァルトの音楽を愛さずにはいられないという熱情を自分の内面で再確認する時間をしばしば持っていきたいと思ったことでした。余裕のなさを熱情で乗り越える。美的実存の追求。
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