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史跡めぐりは楽しいよ・・・国分寺・正福寺 [子どものための歴史講座]

 歴史の授業で名前だけ聞いているものを実際に見てみると、歴史との距離感がうんと縮まります。連休など、わりあい時間的にゆとりがあるときは、史跡めぐりをしてみませんか。5月4日に東京西郊の国分寺・東村山をたずねました。

DSCN3170.JPG国分寺崖線を降りたところが黒鋼(くろがね)公園です。国分寺崖線は太古に多摩川が氾濫・浸食した北端部の河岸です。この写真のあたりにあった祥応寺が消失した時、仏像が黒こげになったがともかくも残った、というので、ここを黒鋼公園というそうです。

DSCN3174.JPG国分尼寺の尼さんが住んでいた「尼坊」あとです。斜めに道路が切断しています。8世紀・天平時代に建てられた尼寺も衰退し、鎌倉時代になると鎌倉街道によって寺の境内が分断されていたそうです。1993年~1996年に行われた発掘調査に基づいて歴史公園として整備され2003年から現地の上にお堂の範囲を示し、柱をその上に建てる礎石を置きました。この「尼坊」のすぐ南の金堂跡も版築(土を盛り上げてから突き固めて平らにし、さらにその上に土を盛り上げて突き固め・・・を続けて土壇にしたもの)の形で造成して位置を示したあります。国分尼寺の様子を伝える遺構はきわめて少ないそうです。国分寺や国府との位置関係や尼寺の規模などを実感するのにきわめて具体的な手掛かりを与えてくれるところです。

DSCN3181.JPGこちらは国分寺です。聖武天皇の詔勅にはかなりこと細かく国分寺をどういう風に作れということが書いてあります。七重の塔を建てよとも書いてありいます。その跡地(推定地)。地元では塔を復元しようという運動も行われているそうです。国の史跡ですから、予算化の道もあるのかもしれません。

DSCN3184.JPG現在の武蔵国分寺の山門です。江戸時代の幕臣米津氏が知行地だった東久留米市前沢にあった米津寺山門を明治24年に移築したものです。この奥左手、国分寺崖線を登ったところに薬師堂があり、ここには平安時代に作られた大きい薬師如来像が置かれています。

DSCN3186.JPG国分寺の前を横切る小道は「お鷹の道」として整備されています。江戸時代この一帯が尾張徳川家の鷹場だったことによります。ここには湧水の源流がいくつかあり、写真は真姿の池の優水源(写真奥)です。

DSCN3187.JPG時代を地質時代→奈良時代→平安時代と追ってきました。今度は鎌倉時代です。1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉攻めのとき、小手指ガ原(埼玉県所沢市)、久米川(東村山市)、分倍河原(府中市)で幕府軍との合戦となりました。久米川古戦場をすぐhがしに見下ろすここ八國山(はちこくやま)にあるつかの上に陣取り、挙兵をした
と言われる場所です。明治の中ごろ、教育勅語が発布されてすぐのころに建てられた「将軍塚」の碑です。天皇に忠義を尽くした武将をたたえる時代の空気がこの碑の背後に潜んでいるようです。

DSCN3188.JPGこれは国分寺からほぼま北7kmのところにある正福寺(しょうふくじ)千体地蔵堂です。東京都では唯一の国宝建造物、室町時代15世紀の建立です。梁の部材に墨で書いていることで年代も明らかになっています。言い伝えでは鎌倉幕府8代執権北条時宗が鷹狩りに来た時高熱で寝込んだとき夢枕に地蔵菩薩が現れ、供養したところ病がいえたのでこのお堂を造ったとありますが、これは後世に作られた話のようです。

 東京郊外なのに意外なくらい緑の多い里山を歩きました。森林浴で体も爽快になりますよ!

旧石器時代 [子どものための歴史講座]

 日本の歴史というい方は実は不正確である、と聞いて「昔の日本は倭って言ってたからだよね」とか「西暦600年代に日本と言う呼び方が登場したからだよね」と答えるキミ。もしかしたら天才かも知れませんよ(笑)。

 現在発見されているものを手掛かりにすると、日本列島で最古の人類の活動が確認できるのは4万年ほど前のようです。では、その手掛かりとは何でしょう。それは「石器」です。

 皆さんは「黒曜石」を知っていますか。黒いつやがあって透明感もある天然ガラスといってもいい火成岩です。よくビルの内装で黒い壁の中に小さな泡がたくさん浮かんでいるのを見たことがありませんか?あれが黒曜石です。

 黒曜石を太陽にかざすと光が入ってくる筋目が見えるそうです。数万年前に日本列島に住んだ人々は、この筋目が見えた。その筋目にそってより硬い石を打ちつけると黒曜石が割れます。こうして打ち欠いて、触ったら怪我しそうな鋭い面を持った道具を「旧石器」または「打製石器」というのです。

 打製石器には矢じりやナイフ、皮をなめすものなどがありました。石器の材料も黒曜石だけでなく関英安山岩や頁岩も用いられました。世界各地で見つかっている石器ですが、日本列島から出土する石器は精度が高くすぐれた道具だったようです。原日本人は手先が器用だった。

 さて、今から65年くらい前までは日本には旧石器時代はなかったと考えられていました。国民学校で天孫降臨が歴史として教えられていた時代です。もちろん歴史学者はそれを事実だとは考えていないのですが、縄文時代に先立つ旧石器時代には火山の活動が活発で、現在の日本の地にはとうてい人は住めないと考えていたのです。

 これをひっくりかえしたのが、考古学好きの納豆売りの青年、兵隊から復員して群馬に住んでいた相沢忠洋(あいざわただひろ)でした。彼は群馬県岩宿(現在のみどり市)の赤土の切通しにキラキラ光る物を見つけ石器だ、と直感します。そしてそこを発掘するのですが土器は出てこない。縄文時代の地層からは土器も石器も出てきます。そのころ日本の歴史は縄文時代までしかさかのぼれないと考えられていましたから、相沢が土器を濠探そうとしたのは当然なんですね。

 土器の出ない地層から旧石器がいくつも見つかるという今までに聞いたことのない発見。相沢忠洋は愛用の自転車を駆って東京の大学に向かいます。東大では相手にもされなかったのですが、駿河台の明治大学に行くと、ちょうど登呂遺跡の発掘を終えて帰京していた青年考古学者芹沢長介(のちに明治大学教授)がいました。芹沢と相沢は図録をさがし、中国東北部で出土している石器とよく似ている、日本では今まで発見例がなかった旧石器であることをつきとめます。

 彼らの興奮が1年後2年後の明治大学岩宿発掘隊の派遣と、岩宿を日本に旧石器時代が間違いなくあったことを証明した場所として歴史に刻み込むことになりました。考古学者の佐原真さんは、旧石器時代を岩宿時代とよぶのがいい、と言っていました。
 
 その後の発掘などで旧石器時代は数万年続いており、人々は狩りや漁の移動生活をし、ほら穴や簡素な小屋に住んでいたであろうことがわかりました。長野県の野尻湖ではオオツノジカやナウマンゾウなどの巨大な動物の骨が出土し、集団で狩りをしていたことがわかります。ナウマンゾウのキバとオオツノジカのツノを星と月を見立てて並べたものも発掘されており、祈りやまじないの精神的生活もお売られていたことが分かっています。

 
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