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Pomp and circumstance [音楽鑑賞]

「威風堂々」と訳している。第1番ばかりが有名。

久方ぶりにショルティロンドン・フィルを振ったCD(ロンドン盤F26l-29010)を聴いた。

ショルティのイメージって、きわめて厳格な人間メトロノームみたいな、インテンポの指揮者、じゃありませんか?ところがどっこい。威風堂々第1番では、随所に粘りを入れて、大きいフレーズの終わりでは思い切りリタルダンドまでしています。そうじゃないと、この海外に雄飛する植民地大帝国たる大英帝国の巨大さが出ないとでもいいたそう。

 私の手許には、このほかに、珍しく合唱(Land of hope and grolyの歌詞)のついたオーマンディ盤と、本場イギリス(?)の、ノーマン・デル・マー指揮BBC響のCDがある。さて、どんなインテンポの崩し方になっているのかしら。「威風堂々」は軍隊行進曲(ミリタリーマーチ)だから、あんまりインテンポを崩されると実用的価値がなくなってしまう。

 デル・マー盤には第5番ハ短調も入っていて、この曲はバスドラムのドスが効いていて、いかにも大英帝国の野心を感じさせる。エルガーも時代の子だったということか。

N響C定期11月ノリントンのシューベルト [音楽鑑賞]

 ノリントン81歳。

 藝術とは精神の冒険である。

 ともかくめっぽう面白い演奏会。これが感動的なのかどうかは、いずれ放送があるだろう、その時いろんな人に感想を聞いてみたいと思う。

 当然ノンビブラート。

 コントラバスがホリゾントの前に組んだ3段目の山台の上に、トロンボーンをはさんで一列。コントラバスとホリゾントとの間に5枚の縦に長い反響版が組み立ててある。NHKに勤めていた録音も採る友人の話では、このホール、低音が出ないのが悩み。コントラバスの陣取りかたはウィーン・フィルが楽友協会ホールの最後列にコントラバスを並ばせるのと同じ発想ではある。そして、コントラバスの音が繊細明瞭に聴こえた効果は確かにあって、未完成の開始時に聴衆が固唾をのんで聞き入っている雰囲気もよかった。

 で、未完成は10型!グレートは16型だが、プルトを半分におとして、管楽器を顕著に聴かせる工夫がしてある。どこでそうなっているのかを納得しながら聴くのも面白い。テーマの描き方もちょっと四角四面で、一拍目強調・・・これらな古楽器演奏での流儀で珍しくもないのだろうか?私は面白かったけれど。そしてかなり弦楽器の弓、フロッグからガリガリ、またはフロッグから全球を速めの弓で弾かせる部分が多い。


 さらにクレッセンド、デミヌエンドをたっぷるつけている。これはヴィヴラートのない分、感情表現を打ち出す方途だろう。ノリントンのノンヴィヴラーはピュアトーンというらしい。これは本当に面白い効果で、宇宙の暗い広がりを思い起こさせる。そして木管楽器がところどころに閃光を放ち、これが宇宙空間に燃える恒星のようか効果を出す。こういう雰囲気をメシアンの「彼岸の閃光」で味わったような記憶がある。

 彼岸の音楽。シューベルトの音楽はロマン的というより冷やかで救いのない面がある。彼自身「ぼくは悲しくない音楽なんて知らない」と言った。すると晩年の「未完成」や「グレート」ではそうした救いようのない深刻さが描かれている演奏こそが作品の世界に沿ったものだ、ということになる。ノリントンの演奏はそういう点に気づかせてくれるものだったと、私には聴こえた。

 ノリントンの演奏との出会いは、吉田秀和先生が朝日の記事で、ロンドンクラシカルプレイヤーズと入れた幻想交響曲をとりあげて、いろんな音が聴こえるというので、興味をもって新譜のCDを買った。オフィクレイとかコルネットとか。

 そして「グレート」は言わずと知れたベームの75年来日公演の美演奏こそが決定的と思っている。その考えはノリントンの構築性が鮮やで全曲のテーマ性も明確に打ち出した演奏を聴いたのちも変わらない。

 とはいえ、ノリントンの音楽を聴いて、国安洋先生に音楽学を教わって以来、ずっと課題であり続けている音楽における「あそび」の姿が具体的に掴めたような気もすこし、している。やはりめっぽう面白い音楽を聴いたのだと思う。精神の冒険は面白い。

N響C定期ブロムシュテット指揮で [音楽鑑賞]

 現在最も内容のある音楽を聴かせてくれるのが、ヘルベルト・ブロムシュテットだろうという期待のもとに、デング熱を媒介する蚊のいる心配がある代々木公園前を通ってNHKホールへ。

 ハードボイルドな熱狂。

 聴衆がチャイコフスキーの第5交響曲が終わるや否やブラボーの嵐を巻き起こしているとき、私は今日の凝縮された時間の集積に圧し殺されそうになっていた。

 至極まっとうな、テクスチュアを細かく丁寧に描き出した、音符の意味をよく考えぬいた演奏。オーケストラも優秀。均一性の高い音楽を奏でていた。辛口で、超がつくくらい真面目な音楽。

 モーツァルトの40番が前プロ。12型。クラリネットの入った版。

 この曲もチャイコフスキーも対抗配置。私の座ったLB4の座席からはコントラバスを真横から見るので、旋律とバスが一緒に聴こえて、これも音楽の機能が裸で聴こえるような気がした原因かもしれない。遠く離れた第2ヴァイオリンの音もしっかり美しく聴こえてくるのもさすがN響。

 40番は第2楽章が速い。アンダンテ6拍子だが、早足で歩くアンダンテ。全楽章フレージングガ短め。厳しい雰囲気の音楽となった。

 反復は律義にすべて行っていた。第3楽章の繰り返しは、メヌエットの前半を繰り返し、メヌエットの後半も繰り返し、トリオの前半を繰り返し、トリオの後半を繰り返し。ここまでは定石通り。驚いたのは、メヌエットに戻ってから、前半も後半も繰り返したこと。フィナーレも同じ発想で、展開部・再現部を繰り返した。音楽の構造はこうなっていますよ、半音階がこんなに効果的に使われていますよ、と繰り返し丁寧に教えてもらった思い。

 合奏は見事。甘い味わいはないけれど、N響の合奏能力は高くて、快いし、オーケストラに身を置く素人としては羨望である。

 でもハードボイルド。

 ブロムシュテットのつくる音楽から彼が枯れたという印象は与えられない。矍鑠(かくしゃく)というのとも違う。(88歳の老音楽家なのだが年齢を超えている)。ブロムシュテットは1973年だったかにドレスデンシュターツカペレと初来日して以来何回かきいている。もっとふかぶかとした音楽を聴かせてくれる人ではなかったかしら。今日の演奏は、あんまり人々を幸福にする要素に富んだものではない。しかし、40番にはそれがふさわしかったとの想いもある。音量やクレッシエンド・デミヌエンドなどの解釈を施しているのも音楽の厳しさを志向していたと思われたのである。

 NHKホールで。フォルテシモでもホールの空間に音が吸収されてしまって、はねかえってこない。こんなことは私が言うまでもなくみんな知っていることだけれど。

吉田秀和『フルトヴェングラー』(2)流線形の美と自由「運命」交響曲 [音楽鑑賞]

 今日聴いたのは1943年にベルリンの旧フィルハーモニーで6月30日にライブ録音された『運命』(DG盤)
です。放送用にお客さんのいないホールで録音されたもので、しかも編集で1小節が他の日の演奏と取り換えられているらしいです。

 いま、「運命」を弾いていて、最初の5小節の扱いを再び聴いてみたくなったのです。自著の『音と言葉』で、最初の5小節は全体へのモットーだとフルトヴェングラーが指摘ししているのは、フルトヴェングラーを好んで聴くひとたちはみな知っていることでしょう。

 
 モットーを提示し終える5小節目のDの音を目一杯以上に、伸ばしに延ばし、さらにいったん音楽を切り、非常に自然な八分休止符(!)へと流れていき、その6小節以下は快速テンポで一気に音楽が推進していきます。各楽器間の受け渡しもアーチを描くように淀みなく行われます。流線形の美を見る思いです。

 フルトヴェングラーの演奏に「精神と官能の同居」を指摘したのは吉田秀和先生です。今日の私は、この43年盤に、官能が満ちているとは思わなかったが、天才的な音楽家が旋律美を創造していく現場の感覚を十二分に味わった気がします。

 しかし、このモットー性が一番切実に感じられるのは再現部冒頭でした。

 再現部の5小節は、それまでの快速調からなだれ込むように始まります。停滞を思わせません。にもかかわらず、巨大な壁が現れたような存在感で示されるのです。テンポがあきらかに変化しているのですが、まったく不自然さがありません。これは提示部冒頭でのモットーの提示が迷いなく確信を以て明確に把握されているだけでなく(一小節目1拍目の裏拍のGのアインザッツがあってないとか音が4つ聴こえるとかの形而下(!)レベルの問題ではなく)、かつ聴き手の心の奥にしっかり刻みこまれるほかない演奏になっているからでしょう。

 そして、再現部のモットーに続く部分。ここでのアッチェレランドは凄まじいが、必然を感じさせます。流動性と推進力は素晴らしく、一気にフィナーレまで持っていかれてしまいました。第3楽章でのモットーの出し方も、くっきりしています。この「タタタ・ター」、シンドラーが「運命はかく戸をたたく」と伝えるモットー、これは初期・中期のあらゆる楽聖の作品にあらわれるもので、楽聖の傑作は多かれ少なかれこのイメージとの心理的闘争が見て取れるという指摘があります。「運命」交響曲は全面的な闘争ですね。

 そしてフルトヴェングラーはフィナーレを思い切った造形とテンポで生み出していきます。「バイロイトの第9」かくやの、コーダでのアッチェレランド。これはすごいですが、ベルリン・フィルが一糸乱れず充実した音を作り出しているのにも驚きです。ただし、コーダの最後の最後は大見えを切るような具合になっていて、バイロイトの第9のように駆け抜ける演奏ではありません。ここでもテンポ設定も天才的で、フルトヴェングラーの自由さが作品の内なる声にこたえたもののように聴こえます。

 きわめて充実した演奏で、33分ほどの演奏時間が短く感じられることはいうまでもありません。

ケーゲルの「ベートーヴェン交響曲全集」 [音楽鑑賞]

遅ればせながら、一部のファンの方々に評価の高いヘルベルト・ケーゲルのベートーヴェン交響曲全集を買いました(米レーザーライト盤)

 まず第9を聴きました。この演奏、よく個性的と評されているようです。たしかに個性的です。朝比奈隆のアプローチ、つまりスコアに全幅の信頼を置いて、すべてのパートを鳴らす、に近い演奏。ただし、ドイツ的明晰というのか、洗練というのか、木管金管の音色にいぶし銀的な美しさがあります。すべての楽章が熱狂から遠い所にあります。個性的という評はとくに第4楽章からくるのでしょう。テンポ設定に唖然とするところがあります。しかし、楷書体の演奏です。

 ケーゲルは爆演系の指揮者だという声をネット上ではよく読みます。しかし、私はこれを爆演とは言いません。

 次に、第7を聴きました。やはり熱狂から遠い透明度の高い演奏です。一方で、フィナーレは飽和的でした。続けて全曲聴かないと解りませんが、ベートーヴェンが確立した「フィナーレ交響曲」の様式を聴き手に気づかせる演奏という基本線がケーゲルにあるのかもしれません。

 「フィナーレ交響曲」というにふさわしいのはエロイカでしょう。ケーゲルの音楽づくりは、テクスチュアが緻密で明確、こまかいアーティキュレーションが丁寧に造形されています。しかも、全体の流れがよい演奏です。第1楽章の最初、2本のトニックが力強く打ちこまれてすぐチェロの朗々とうたう第1主題が出てきます。このとき、和音を刻みながら支えるパートが目立たずによりそっています。旋律を主として、他を従とする機能の弾きわけが、このエロイカを面白いものにしています。ドレスデン・フィルの木管のソノリテを存分に聴かせたいというケーゲルの意図がよく伝わってきます。当然第3楽章トリオのホルン合奏もみごとです。第2楽章の葬送行進曲は遅めのテンポをとった悲痛な音楽に、フィナーレは中庸を得たテンポで変奏曲をわくわくするような性格で仕上げています。奇をてらったところのない、堂々としたフィナーレです。しかし、全曲に渡って細部をいじりすぎたきらい無きにしも非ずで、ケーゲルだからエロイカの巨大なスケールが聴けるかも、と期待すると肩透かしを食います。



ウィリアムス・ディーリアス・ウォルトン [音楽鑑賞]

 イギリス音楽の第一人者とたぶん認識されている尾高忠明氏が藝大フィルと3日間リハーサルして、イギリスの音楽を3曲演奏した。

 どの曲もおそらくこれから生で聴く機会は私にはないだろう。

 レイフ・ヴォーン=ウィリアムス「タリスの主題による幻想曲」(弦楽合奏)、フレデリック・ディーリアス「楽園への道」、ウィリアム・ウォルトン「交響曲第1番変ロ短調」。

 フランスの巨匠で、私も大好きで幸い何回も生演奏に触れることのできた、ジャン・フールネ。彼が90歳を過ぎてからのインタビューで、「日本の皆さんに1局でも多くフランス音楽の知られざる名曲を紹介することを続けてやりたい」と語っていたのを思い出す。その時のプログラムには「ラムンチョ」とか「シャイロック」といった曲が含まれていた。あれから日本で何回プログラムに載っただろうか?

 同じような事情が今日の曲にもあるだろう。

 尾高さんは3曲の指揮を終えて、異例にもマイクを持って現れ、開口一番「疲れる曲です」。もちろん会場は笑い声で応えたが、私は複雑な思い。プログラムにも書いてあったのにさらに尾高さん「イギリスの音楽は大嫌いだった」と。イギリスの音楽への共感を表わす言葉はついぞ聞かれずだったが、要は、イギリスの音楽をまだ我々は体験し学習している段階だ。と言いたいのだ。「もし今日の演奏でイギリスの音楽がちょとtでも面白いと思ったら演奏会に出かけてみてくれ。」これは、お客さんを立てた謙遜したものいいだろう。

 演奏は渾身のもので、音をそこに置きに行ったとか、譜面がそう書いてあるからそう弾くというレベルははるかに超えていた。コントラバス7本の14型だが、弦の音は明瞭、金管はよく鳴り、打楽器は意欲的だった。

 しかし、レイフ・ヴォーン=ウィリアムスの曲は2群の弦楽オーケストラと第オーケストラでは各パートの主席のカルテットのために書かれている。視覚の助けで音響・音量の変化がわかり、音楽にはついていける。CDで聞くと、かなりとらえどころがないだろう。

 ディーリアスの曲が結局一番パステル画風で温かく抒情的だったと言えるのだろう。だがこれも印象派風で、旋律的なとらえどころがない(ように私には聴こえた)曲。

 ゥオルトンの交響曲は、循環形式で書かれているというが、まったく私はわからなかった。主題が一度聴いて頭に入るような性格的なものではない。そして延々と解決されない和音が続く。第2楽章のスケルツオが際立ってリズミックではあるが、やはりメロディーラインはつかみづらい。第3楽章はすこしシベリウス的な雰囲気もある。そして響きが際立って明るく鳴ったフィナーレでも、未解決な音楽が延々と続く。最後はシンバルとタムタムの助けと、モティーフをぶった切って投げつける書き方で、そう、力で曲を閉じるというもの。

 尾高さんはカラヤンがこの曲を「20世紀最大の交響曲だ」と評価していたことをプログラムに書いている。

 明らかに後期ロマン派に属する曲だが、私にとっても勉強。後期ロマン派および20世紀の交響曲はどうも苦手。アマチュア・オケの楽員さんが「マーラーやりたい。第7番がいい」などというのを聞いても、私はただびっくりするだけ。今日の曲だって、以前、尾高さんがサントリー学芸賞を受けた時の記念演奏会で聴いたエルガーの第1交響曲だって、好んで2度め3度めを聞こうとは思わない。

 晦渋で、長々としていて、とりとめがない音楽、暗い影のイメージが離れない音楽。まじめな、真面目さをそのまま真面目に示した音楽。

 20世紀の交響曲をそうたくさん聴いているわけではないが、プロコフィエフの「古典交響曲」は何回も聞いているし、ショスタコーヴィッチの第8交響曲とメシアンのトゥランガリーラ交響曲はまた聴きこんでみたいと思う曲である。

 ユーモアや感覚的な喜びが宿っていない音楽にすっと入り込んで行けないということなのかもしれない。「やあ、こんにちは」と言ってくれる音楽、「キミの今日の服の色ステキだね」の音楽。そういえば、私はオーケストラや職場でもチヤホヤされないとノリが悪い。、

クララ・ハスキルの魅力 [音楽鑑賞]

 少し時間ができたので、悲愴をさらわないで、クララ・ハスキルの録音をいくつか聴いてしまいました。

 この20世紀後半に少し足を踏み入れたときに亡くなってしまった、障害と闘いながら神々しい音楽を紡いでくれたルーマニア出身のピアニスト。リパッティと同郷で中もよく、またヴァイオリンのグリュミオ―との共演盤が再発売を繰り返される音楽性に満ち満ちたピアニスト。

 ハスキルでもっとも惹かれるのはモーツァルトです。

 今日聴いたCDは第19番の「第一戴冠式」とも呼ばれるヘ長調の曲です。(kv.459)

 バックは往年のチェコの指揮者ヘンリー・スヴォボダ指揮ウインタートゥール交響楽団。オーケストラがソリッドな迫力でピアノに迫る第1楽章、ちょっとアタックや音量がピアノに勝りすぎているのでは、と思い、途中からスコアを出して見ながら聴いてみました。

 提示部の一番最後にサブドミナントから7の和音に分散和音で移っていく締めくくりのパッセージがありますが、ここがじつに印象的に弾かれています。夕日がやさしく落ちていくような風情があります。このパッセージがピアノに出る時もオケにでるときも心をこめて弾かれているのが強く印象に残ります。弾むような第1主題をオケが元気いっぱいに弾いているのも、結尾部との対比あってのものかもしれません。

 第2楽章になると、ピアノととくに木管との応答が、オペラの心理劇が進行する時のデュエットのように、親密に響きます。弦がそれをじゃましないように、しかし的確な(楽譜に忠実に)寄り添いを見せます。

 ウィンタートゥールのオーケストラは、往年の巨匠指揮者ワインガルトナーの晩年と関係が深く、この巨匠がパリで「発見」したビゼーの第1交響曲を初演したオケですね。コンサートマスターがこれまた往年の名手、ペーター・リーバルだったらしいです。

 とすると、ハスキルとの協演も多く、ハスキルとの室内楽の録音も残しているヴァイオリンの名手と、リリックで、流れるような線の旋律線を作るこの名ピアニストが、すぐそばて、呼吸の音を聴きあいながら音楽を作っていったのですね。

 なるほど、第3楽章などモテ―フの交錯が鮮やかで、その運動性の機敏さに魂をすくいとられそうです。みごとな室内楽。ここにくると、オーケストラの各楽器のピアノとのからみの魅力が先に立ち、ソリッドな響きという印象が希薄になります。演奏会ではこういうこと(楽章が進むにつれて音楽がこなれていく)はよくありますね。その雰囲気を大事にしたかったのでしょうか。初めの楽章の録り直しをやったようには思えませんでした。最後の短いコーダもインテンポで押し通し、爽やか。1950年の録音。

 さらに自由な雰囲気で各楽章の性格の違いを鮮やかに描きながら、リリカルないな深い音楽性の魅力をにじませているのが余白に入っていた、シューベルトの最後のソナタ(21番)。これも最後に向かうにつれて音楽が熟していきます。1951年の録音。(DOCMENTS 223109-345D)

 時間の余裕、もっとあって、LP10枚組のクララハスキル全集に針を通せればいいのだが・・・

柴田南男『音楽史と音楽論』 [音楽鑑賞]

岩波現代文庫の4月新刊。しかし、もともとは放送大学のテクストで1985年から使われていたものである。

 最近の放送大学の音楽学のテクストは笠原潔氏の執筆したものである。笠原氏の講義で圧巻だったのは『北瑳聞略』にある大黒屋光太夫がロシアで覚えてきた曲を突き止め・・・それは望郷の歌であったのだが・・・ロシアで演奏家に歌ってもらいそれを映像として放送したものであった。

 この惜しくも早く亡くなられた笠原氏の仕事が、柴田南男氏の提唱した「音楽考古学」の実現化であったことをこの本で知った。柴田南男氏は1970年代80年代のNHKFMでの常連で、吉田秀和氏、海老沢敏氏、前田昭雄氏、国安洋氏とともに、その鋭い発想が強烈な多くの刺激を私に与えてくれた人である。

 大学での藝術学の講義はその国安先生によるものだった。ここで東洋と西洋の藝術史を概観して、「逆現象の同時展開」を学んだ。西洋が具体から抽象に進んだとするなら、むしろ東洋は抽象から具体に進んだという藝術の流れである。

 ところが、驚くべきことに、本書では、音楽史が東洋・西洋の隔てなく取り上げられ、しかも同時代に東洋・西洋で同様な現象が起こっていることを指摘する。たとえば、近世後半に劇場の音楽が発達してたこと。かたや歌舞伎や文楽でたしかにそこに音楽は付随する。かたやサリエーリに「ことばが先か音楽が先か」があり、モーツァルトに日本の王子を主人公にしたジングシュピール「魔笛」がある。

 本書で学んだ放送大学の学生はずいぶん早い時期か東洋西洋を相対化してみる(きく?)視点を手に入れていたわけである。日本文化を考える場合にも、はばひろく、雑種性を再発見しながらという、基本的な枠組みを思い出させる書である。
 

撥ねあがるスタカート・重く沈むアクセント~自由に、楽しんで。アンヌ・ケフレックのピアノ [音楽鑑賞]

  「自由に気ままに弾く」ことをコンセプトにした「ディソナントの集い」をこの5日に経験してきたのであるが、はたして、メンバーから希望のあったこのコンセプトが実現できたのかどうかよくわからない。クラシック音楽は約束事が多く、楽器から正確できれいな音を出すのも至難である。制約が多いし、自分の持っている技も限られているし、自分の体を音楽の要求に合わせて思うように動かすのだってなかなかできはしない。「自由に気ままに」は、そこを突き抜けて実現できる境地であろう、という思いが私には強い。

 今日国立音大であったアンヌ・ケフレック教授の公開レッスンでのことである。国立音大3年の真琴さんが実にしっかりしたハンガリー狂詩曲第6番(リスト)を弾いた。ケフレック教授が「真琴さんが正面切って曲と取り組み、丁寧に勉強し、緊張の中でしっかり弾いた」と、労をねぎらったあと、最初に言ったのが「もっと自由に自分の音楽を楽しんで出す方向でいくとよい」だった。「悪魔がここではまだ隠れていて」とか「悪魔がからかっていて」とか『ファウスト』のメフィストフェエレスのイメージを借りてこの作品の世界を理解させようともしていた。その意味は、モーツァルトの音楽について、20世紀の初期にアルフレート・ホイースが指摘した「デモーニッシュ」と重なる部分もある。不意打ちとか急に表情や情感が変わるなどの意味で。

 「もっと自由に」がこのレッスンの中心テーマだったわけだが、さて、それを実現するには、何が大事か。まず、最初の音量に注意がいった。大きすぎる。しばらくしてからffが来る場合、最初は大きすぎない方がいい。全体の設計にかかわる。「ここは息を吸って」フレーズの初めの部分で何回かこの指示が出た。軽く短く、の指示も多かった。符点のついたおとそそのあとの音を丁寧に弾いてしまうと重くソフトになってしまう。悪魔が飛び跳ねるような感じは出ない。軽く弾くためにもっと手首を跳ね上げて、という指示もあった。(こういう指示が師匠から出る場合、私もやってみるのだが、すぐできたためしがない。)リズムの感じ方、撥ねあがるスタッカートと重く沈むアクセントとの交錯をそれぞれ明確に出す・・・

 フランス流の明晰は判明性をももっている。他と違うことが明瞭になればなるほど明晰さは増す。ケフレックの知性もやはりカルテジアン的なものであったように思う。

 公開レッスンに先立って、ケフレックは4曲弾いてくれた。「途中で拍手なしでお願いします。一気に4曲を続けて弾きます」「アンコールも弾きません。かわりにバッハがマルチェロのオーボエ協奏曲を編曲したものを最初の導入に弾きます」

 マルチェロの2小節目で長2度の音がぶつかるところからすでに緊張をはらんだ空気がホールを満たした。今までと違う時間が流れ出した。あたりを払う雰囲気。大家のオーラが出ている。

 このあと、ショパンのノクターン第20番嬰ハ短調、子守唄変ニ長調、ドビュッシーの映像~水の戯れと続く。すべての曲が同じ高さの音で終わり、その高さの音で次が始まる。なるほどこれは、続けて弾くわけだ。最後に幻想即興曲。これもドビュッシーの最後の音と関係の深い音の強奏から始まった。感覚的な曲の並べ方でなく、法則的・合理的な筋が通っている。フランス的なt知性がきらめいているのは実に爽快だった。

 ただ、ケフレックの音は丸みがあってその丸みの中が温かい液体で満たされているような豊麗感がある。ペダルは相当こまかく踏み分けているのでそこにも秘密があるのだろう。ルバートはごくわずか。

 たいへん高みのある演奏に触れた思いである。演奏はケフレックがその作品の世界を自由に渉猟したものと言えるのだろうとも思う。このところその意味を考えていた「自由に、気ままに」弾くというのはつまりは「理想(に近付きたい)}であることもよくわかった。
 

 

大作曲家ユン・イサン(1) [音楽鑑賞]

20世紀の大作曲家ユン・イサンの作品ばかりを取り上げた「藝大創造の森」を聴いた。

 誰の音楽とも違う音楽。

 東洋でもない、西洋でもない(というかまぎれもない西洋音楽と聴こえた)その融合とも呼びたくない、作曲者の内面を追体験する時間を持った。武満徹のことばをかりれば、樹木の音楽というより草原の音楽に傾いている。でも語方や形式感、使っている音階西洋のものだ。

 美しい瞬間をいっぱい持った音楽!響きそのものが面白い音楽。

 とっらわれのない音楽。

 心に響いてくる音楽。ざわめきとうごめきと叫びと痙攣にあふれている音楽。もう一度聴いてみたいと思わせる現代音楽。
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