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悲愴覚え書き(番外編) [音楽活動]

 そういうわけで、悲愴をメインプロにした本番が終わり、腑抜けの呆助みたいになっています。

 先生の指揮は一点一角をおろそかにす るなという気迫のこもったもの。しかも、燕尾服のシルエットが大変美しく決まっていて、気品のある演奏で応えなくてはという気にさせるものでした。

 畏友ハール・シューリヒト氏は、「粒立ちが良い音を響きが包み込んでくれていた」と。恐ろしいことです。なんと細かいことまで聴いているのだろう!さらに「第3楽章の三連譜のクレッシェンド・ディミヌエンドがとりわけくっきりと弾かれていた」とも。そこは私(たち)がとくに気合いを入れて弾いていた部分。

 さらに噂によると、悲愴の終楽章で、何人か泣いている聴衆の方がいらっしゃったとのこと。

 驚くべきことです。

 私のお世話になっているオーケストラの団員平均年齢がおそらく60歳近い。その年輪のなせる技なのでしょうか。

 それにしても悲愴の演奏で泣いていただくなんて。メンゲルべルクやフルトヴェングラーの悲愴で人々が泣いたという伝説的な話は聞いたことがある。それは多分に、大戦前夜という時代の空気のなかでのことかと思っていました。

 これまた畏友、にくにく先生、彼はたいへん音楽の造詣が深く、特にフルトヴェングラーを聴きこんでおられる方ですが、その鑑賞(に値するか否か)の基準を「感動できるか」に置いています。

 今日の聴衆の方々や、にくにく先生のような、全的な心の在り方。尊重されるべきものでしょう。おそらくプロ・アマ問わず、演奏行為にかかわる者は、心の深いところに届く演奏をこそ、と、心に留めておくべきに、ちがいありません。

 音楽は人生そのものであり、人間性そのものである。心から出でん、心に至らんことを(ベートーヴェン)。

 
* なお、今日演奏した曲はスラブ行進曲、眠りの森の美女(組曲:作品66a)、悲愴。ホール撤収時間が迫っていたため、アンコールはなし。

悲愴覚え書き(8)作品世界を生きる [音楽活動]

 「悲愴」交響曲は、チャイコフスキー最晩年の作品である。この作品の完成直後、彼はコレラに感染して、命を落としてしまう。最新の研究でも、作曲家のコレラ死亡説が有力のようである。

 そして、この交響曲を、作曲者自身が、完成の少し前から「悲愴」と呼んでいたことも、チャイコフスキーと友人との手紙の文面から明らかにされているという。

 「悲愴」を巡る思想的な吐露が全編を覆う交響曲。死の想念や諦念、慰め、抗い、こういう人生的な激しく、あるいは澄み切ったイメージが支配する交響曲。あるいは、メッセージ性の強いジャンルとしての交響曲、全体の構成力がものをいう音の大伽藍としての交響曲。

  この曲はファゴットの、3度音程を順次進行で昇って一全音下降する、ソロに始まり、チェロのモノローグで終わるが、ともに出てくる音の形は、いったん上昇してから下降する順次進行である。順次進行は、第1楽章序奏部のテーマと主部第一主題だけでなく、第2主題も下Fis・E・Dの順次進行と分散和音を組み合わせたものである。この順次進行が半音的に進行する部分も多く、そういう箇所はいかにも悲愴というか、救いようのない人生の真理の想念が強く感じられる。

 そして、終楽章の第2主題が順次進行の下降音型で出てくるときの慰め。ブラームスの第4交響曲第2楽章第2主題のような、憂愁はもはやなく、ワーグナーのトリスタンに聴く陶酔からも遠い。冷徹だけれど慰めの音楽。これはチャイコフスキー最晩年に到達した、ほかの誰も書かなかった音楽のような気がする。

 こういったものを曲の端々に感じられるかな、と思い始めたころ、私がお世話になっている市民オケは本番を迎えてしまうのである。

 各楽章で、なかなか全貌を現さないテーマ。これは第1楽章もそう。第3楽章もそう。第4楽章もそう。

 フィナーレ冒頭はテーマの音型が第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンに一音ずつあてがわれて示される。それすらも、テーマの提示・明示をためらう、隠ぺいされる運命を象徴する書き方と解せられる。最近の演奏では、フィナーレ冒頭をテーマのメロディーラインにあえて整えないものが一般的になっていると、指揮の先生は指摘される。したがって、われわれはここを無造作と言ってはなんだが、あえて滑らかなラインを表出するようには弾かない。

 ふと絶望の淵に突き落とされるような叫び(第1楽章の展開部冒頭はその好例)。そして孤独感をかみしめながら終わりが迫る終曲結尾部。全体の構想も、部分部分の作りも、主題の音型も、たいへんにロマン的である。突発的に咆哮したり叫びをあげたりする金管も、この作品のロマン派=感情の優位の側面を強くあらわしている。

 これは、ロマン派の大作であり、作品世界の感情的追体験を抜きに演奏できない曲である。

 YOU TUBEには63歳だった時の岩城宏之指揮N響きによる、フィナーレがアップされている。粘り気のある音で引きずるようなリズムで演奏される「悲愴」は、センチメンタルであるが、作品世界のある面を明瞭にとらえた演奏といえるだろう。ロマン的な想念がどう鳴り響く音で表わされていくのか、をそこで聴くことができる。

悲愴覚え書き(7)弾けるかも [音楽活動]

 鎌田浩史氏の合奏の会に参加して、「悲愴」の弾けない部部について質問しました。

 第1楽章・練習番号Kの猛烈な勢いで全オーケストラが16分音符の分散和音で下降して、最後にヴィオラだけが残る部分。

先生からのアドバイスは、指を内側に鋭角に折り曲げて、手のひらと平行にする。手のひらは平らにいて、手の甲の部分はむしろ反りかえらせ気味にする。

 フィンガリングは1141・3213・1431の「ケリーさんのでOK。私も同じフィンガリングで弾きますね」

 「これを手のひらをフロッグ近くに持ってきて、指弓で弾く。ここはフォルテが3つついているところなので、遠慮しない。」で、家に帰ってからも復習してみました。

 弾ける!

 まだ、指揮者の先生の示すテンポでは無理ですが、先が見えてきました。私も相当なトシですが、「進歩」ってあるもんなんですねえ。ピアニストの坂田麻里氏の、「いくつになっても、必ず練習すればうまくなる」と以前、コンサートで聴いたトークをいまさらのように思い出したりもしました。先生ってありがたいもんですね。

 

悲愴覚え書き(6)歌うこととフィンガリング [音楽活動]

 このところ、大事な人たちの健康状態がよくない知らせが重なって、こんな遊びみたいな記事を書くのにうつつをぬかしていていいのか、と思ったりします。

 国内でもきな臭い動きがあったり、多くの音楽家を生んだ黒海沿岸では軍事行動が勃発、内陸にヤオトンがいまだに残っているはずの中原の国。これが海洋国家化しつつあることでの摩擦・・・など、こころを傷める出来事が頻発しています。歴史が動いているのですね。大きな揺り戻しの力が働いているのでしょうか。その基礎付けはどこに求めるべきなのでしょう。

 私たちは微力かもしれないが無力ではない。との教えを胸に、考えを深めたり、いろんな人と共有したり、対話したりしていきたいものです。

 音楽もその対話の一つ。弾けないのでは話になりません。

 ついに、指揮者の先生に「弾けません。」と質問しました。先生は、リズムを歌ってくださいました。ここで肝心なのは先生は長いパッセージを全部歌ってくださったのに、私は途中で脱落しています。モテ―フだけ練習してもダメ。フレーズ全体、パッセージ全体のイメージを頭と指、右手のボウイングに叩きこむことです。その前段階として、歌う。今日、通勤・行き返りの電車の中で、スコア見ながら(頭の中で)歌いました。

 さらに「ダブルシャープがついている音が取れない」点については、先生、あきれられて「フィンガリングが決まってなければダメですよ」とひとこと。フィンガリングが決まっていれば、半音高いとか低いとか、一全音違う、三度違う(えー!)とかは、あとで矯正できる。フィンガリングを頭に叩き込むよう残りの日々を練習してみようと思いました。

 基礎・基本のアドバイスですね。これ、大事です。そういえば、中学受験のプロ、にくにく先生も「基本、大事。この部分で差がつく。」と始終おっしゃっていました。プロのアドバイスは一見難しくない。しかし、その実行は大変のようです。

悲愴覚え書き(5)弾けない;汗・・・ [音楽活動]

弾けないところ。ビヨラは辛いよ。

第1楽章:

(1)19小節~23小節のテーマの提示。音程悪すぎ。
(2)38小節の分散和音上行。
(3)42小節サルタンドに入る3拍目と4拍目。
(4)59小節アウフタクトからの分散和音下降から半音で2度を上がったり下がったりする62小節までの動き。ここ、♯・ⅹで実音が分かりません。
(5)63小節練習番号C~77小節の練習番号Dまで。ちょっとさらわないと弾けなくなるところ。暗譜できていない。
(6)101小節からのサルタンドが続く部分、練習番号Fを過ぎると数えが分からなくなる。すると119小節からのクレッシェンドが的確にデくなくなってしまう。
(7)134小節インカルザンドの2拍め。32分音符での音階の駆け上がり。ここは聴かせどころではありませんか!弾けなくてよいのか?
(8)アレグロ・ヴィーヴォになってからの練習番号Hの前後。とくにH171小節の16分休止符のつぎ裏の拍からの出が「決め」られたためしがない。
(9)練習番号L以降のシンコペーション。長く続くとどこ弾いてんのか分からなくなる。
(10)ページめくってすぐの240小節から練習番号Nまでの3小節。
(11)305小節から練習番号Sの313小節までの32分音符で動く半音階。

第1楽章だけでこんなに!

第2楽章の5~9小節のリズムも取れません。リズムが悪いね。

第3楽章は3連プの動きがダメ。

フィナーレは19小節、95小節、103小節、126小節130小節の音階を三連プと32分音符で駆け上がっていく同じパターン。


、しかし、われながらひどいな・・・6月7日の本番までに何とかなるのか?????お金取って人様にお聞かせする?いいのか?そんなことして・・・

「悲愴」覚え書 [音楽活動]

 チャイコーフスキィは最後の交響曲で、厳格な古典派交響曲の世界に回帰しようとしていることが指摘されている。
 
 

それまでの交響曲に見られたように、民謡主題を用いることなく、主題を各楽章に回帰させる循環形式をとることがない。2度で下降する3つの音を動機として全曲を統一している.


 
 
動機で全曲に統一性をもたせる発想は、モーツァルトのジュピター交響曲、ベートーヴェンの運命交響曲、ブラームスの第1・第2交響曲の例を出すまでもなく、古典派とその延長上にある交響曲の特質である。悲愴もこの線上ある。ちなみに動機(モティーフ)は楽典的・機械的に言うなら8小節で主題(テーマ)、4小節は動機。ワーグナーの「ジーグフリート牧歌」では曲を開始するH(ハー)のオクターブ上行の1小節がすでにモティーフである。

 
さらに今日の終楽章の初プロ―ベで、指揮者の先生から、最終楽章は上行形と下降形に意味を持たせていること。それはバッハやバロック時代の音象徴の思想に則をとったものであると指摘があった。終楽章は下降音階の音型でどんどんクレシェンドし、音価が短くなっていく部分が後半に出てくる。なにものかにあらがうようなイメージは下降音型でしずみこんでいく自然なエネルギー展開にさからっているからであろう。

 悲愴交響曲は漢書楽章に5拍子のワルツを用いたり、3楽章のスケルツォに4分の4拍子と8分の12拍子の混合で行進曲を置いたりしている新機軸にまず耳を奪われる。ロ短調の主和音の確保が最後の楽章まで行われていないという指摘もある。

 作品が完成し初演された、つまりチャイコフースキィの死の9日前当時は、すでに後期ロマン派全盛の時代である。作品が多様な顔を示すのは当然といば当然なのかもしれない。
 

演奏会終えて・・・ [音楽活動]

 本番にはいろいろ事故がつきものとは言いますが。

 12月1日の冬のコンサートで、ベートーヴェン、ワーグナー、ハイドン、モーツァルトと、ドイツ音楽本流の世界を追体験してきました。誰とも違う個性をもった四人の天才の渾身の作との対話です。なんと贅沢な時間であったことよ!のはずなのですが・・・

 今回もいろいろ事故を起こしました。大好きなモーツァルトの、その中でも最愛の「リンツ」で飛び出し事故をやらかして相当メゲてます。めくりの部分で数えをせず、音の流れの記憶だけで弾こうとしていたのと、プロ―ベではめくりがうまく間に合わず、結局弾いていないことが多かったのが主な原因です。分析しても仕方ないか(苦笑)。休止符数えるなんて、合奏に参加する基本中の基本ではないか。と考えるとさらにメゲますね(笑)。

 朝10時からゲネプロで全曲弾いて、本番2時間近く緊張と集中の連続、疲れ果てました。終わったら左右の胸筋・大三角筋が猛烈な筋肉痛に襲われ、何も持てなくなる始末でした。どうも原因はヴィオラ(重いです!)持つときに右手も左手も力入れているからのようです。

 長年の親友オケ歴30年超のクロ・ピクトベア君は脱力の体得を指摘してくれました。同じく学生時代からの親友ハール・シューリヒト君が「こうやって全身の力を抜くんだよ」と言って実演してくれたのをうらやましく思い出したりします。

 その他いろいろ課題が解ってきました。これからは老化の一方ですから、機敏な動きを鍛えるような練習の仕方を心がけなければなりません。しかし「ディソナント四重奏曲」の16分音符、弾けない。最近はこの曲全く弾いてない。いつ合奏の機会があっても弾けるように時々はさらわなくてはいけません。

 ヴィオラもまだまだで、音色が汚いのは、指揮の先生が暗に私を指して力を入れずに楽器を鳴らすように指摘ししていただいています。譜面が読めないのはいかんともしがたいですが、オタマジャクシの玉からの条件反射で弾ける音を多くしていくのも課題です。なんと低次元な。

 こうしていい歳して、万年初心者状態から抜け出せないでいると、昔の中学生時代あたりに劣等生だった自分を思い出したりして。勉強で苦しんでいる子どもたちの気持ちがわかったりします。それは収穫だったかな(笑)

リズムの感じ方・・・ペッヘルベルのカノンを例に [音楽活動]

 冒頭2小節はバスに全曲繰り返されるD-AーH-Fis―G―DーG-Aの音型が出ます。これを1小節を単位とした円運動でとらえます。セパレーションははっきり。ヴィオラに8分音符によるピチカートがある譜面の場合、最初の音を大きめにはっきりした発音で、次の分散和音の音型はすこしデミヌエンドして、分散和音の進行で松葉(>の記号)が見えるように。

 第3小節目から第1ヴァイオリンによる2分音符の音型のテーマが始まります。序奏同様、1小節を一つの円運動としてとらえます。円運動の下端、ちょうど指揮法の運動で言えば円運動が下方向に向かって加速し打点を叩くところがあります。しかし、その打点で音をアタックをつけて出すのではなく、円運動が上に向かったときにすこし膨らませながら音を出します。円の下端では弓の返しを柔らかい手首の運動で行います。

 第11小節から第1ヴァイオリンは四分音符で、分散和音と下降2音の順次進行からなる音型の、変奏に進んでいきます。このときには1小節を二つの円運動でとらえます。以下、細かい8分音符と16分音符で構成される華やかな部分では1小節を4つの運動にとらえます。こうして曲の進行に従って、リズムを円運動ととらえ、さらにその感じ方を細かい方向に変えていき、その中に音を当てはめていくのです。以下はこの応用です。

 パッヘルベルのカノンは、3声の単純な模倣で進行していく平明な対位法の曲で、曲想もあかるくのどかです。こうした優美な性格で演奏する場合、リズムのとらえ方をその変化とともに意識していくことは大変楽しく、合奏団のメンバーが均質にこれを行っていった時の合奏が「合った」感覚はたまらないものがありますね。

 もちろんインテンポで弾いていくことが大前提です。クラシック音楽はスネア・ドラムなどのリズム部隊を持たないため、指揮者がいないアンサンブルでは特にテンポを厳格に守っていくことが大事です。これが結構また難しいんだなあ。長い伸ばしの音では弓が足りなくなって十分に伸ばさずに速くなりがち。旗がいっぱいある音型では「難しい!」っていう意識が強く出てしまって、「この部分ははやく切り抜けたい」とばかりにテンポが速くなりがち。もっともこれは私の場合ですが(汗;)かの巨匠ゲオルク・ショルティが天下のウィーン・フィルにリハーサルをつけているとき、しょっちゅう耳に電子メトロノームを当てて、インテンポを確認していた映像を思い出したりもします。そうそう、カール・ベームのリハーサル映像を見ても「速い」とか「遅い」の指摘ばかりの印象を持ったりしますね。

 今回自分の課題をメモした次第。お目汚しでした。 (以上は鎌田浩氏による弦楽アンサンブル「イレブン」のレッスンで指導された内容に依っています)

アマチュアとプロフェッショナルの交流を [音楽活動]

アマチュアとプロフェショナルのレベル差は埋めがたいほどに大きいものがクラシックの音楽(特に演奏)です。1秒の何分の一かがずれただけで「アンサンブルが合っていない」。プロフェッショナルのピアニストがアマチュアオーケストラのリズムが一寸ずれたのを聴いてしまって一音だけ隣の鍵盤に触ってしまうと「あれだけの経歴を持った人なのにミスタッチ、痛かったね」などと言われてしまう。他の藝術活動でアマチュアとプロフェショナルの間の壁ないし差がこんなに大きいものはないし、その差というのが、0.0何秒とか隣の鍵盤に触ったとかの、繊細というかほとんど神経質なもの。

 しかし、なかには果敢にもプロ並みとかプロ顔負けを目指すといわれているオーケストラもあるといわれています。たとえば東京大学のオーケストラはみんな上手だとか。さて、それは本当なのでしょうか?もう四半世紀ほども前に、ディソナントアンサンブルがテレビ朝日の「題名のない音楽会」に出演させていただいたとき、「音楽早慶戦」の録画もしていて(一回に二つの番組の収録をしていたのです)、ワセオケ(早稲田大学交響楽団)とワグネル(慶応大学ワグネルソサエティ管弦楽団)がニールセンの『不滅』を大音量で弾いていました。このころには、早川正昭先生指揮の東大管弦楽団でショーソンの交響曲を聴いたり、明治大学管弦楽団でブラームス、福井功先生指揮法政大学交響楽団でチャイコフスキーを聴いたりしました。どこぞのアマチュアオケで、ベルリオーズの幻想をやるなんて話を聞いて驚いたりしていましたね。

 つい先日の5月5日、すみだトリフォに―で聴いてきた法政大学交響楽団も、練習を重に重ねて大学オケ自身の音を創り出していこうとする努力が伝わってくる、心に迫る演奏をしていました。総合大学の学生オケを聴くのは久しぶりで、上手になっているのに感心しました。上手と言ってもこの楽団はプロ並みを目指すというのとはだいぶ違う。上手いのだけれど、そのレベルに上り詰めてきた重みの手ごたえがあります。たとえば、この日のメインプロは「田園」でしたが、第1楽章冒頭のテンポ設定の迷いのなさとか、フィナーレのロンドでテーマがドゥーブルになって(細かい装飾的な音になって)もどってくるところの16分音符で音階の昇り降りをする部分(難しい)がピタッとあっていたところなど。ひたむきさが快さを通り越して、練習の積み重ねを想像すると思わず目頭が熱くなりました。大学に入ってから楽器を始めた学生もたくさんふくまれていたはずです。
この日は木村繁氏をソロに迎えてチャイコフスキーのピアノ協奏曲も取り上げられていました。丁寧な練習と、分析的な曲の理解が、モチーフが明確な受け渡される演奏からよく伝わってきて、この曲がどういう曲なのかが今回ほどよくわかったことは無いように思いました。学生さんたちの頭の良さが伝わってきたわけです。

 これだけ上手くてひたむきだと、惜しいなあという部分もまたかなりあって、アンケートに(普段はアンケートに書くことなんかあんまりないのに)あれこれと書いてしまいました。管楽器と弦楽器の受け渡しに今ひとつの進歩がほしいとか、弦楽器のアウフタクトからの弾き始めが無性格になりがちでアクションが欲しいとか、オールカラーのプログラム、表紙のデザインやイラストが素敵なのにデザイナーの名前がないとか・・・。大変申し訳ないことに、アンケートを書いていたら、はやくホールを出ていくように促されてしまい、最後に自分の名を書くのを忘れてしまいました。もし、同楽団の人がこのブログ見ていたら勘弁してくださいね。11月の演奏会にも行きますから。

 さて、職場の近くにある某文化センターに、昨秋、別な6大学オーケストラが来演するというので、聴きにいきました。マイスタージンガーの1幕前奏曲では、金管楽器のリズムが聴いたことのないアーティキュレーションで吹かれます。ウェーバー(ベルリオーズ編曲)の「舞踏への勧誘」ではチェロ主席のお嬢さんが滑らかで正確な音程で余裕たっぷりにワルツへのお誘いを語りかけます。上手いですね。おそらく中学生ころからあるいはもっと前からレッスンに通いながら、ずっとチェロを習って来ている人でしょう。今は、東京では主だった中高一貫の私立・国立校にはオーケストラがあるんですね。一学年が160人程度しかいない小規模な学校でもオーケストラ部があって、その演奏が文化祭での呼びものになってる学校も珍しくなく、受験生の保護者が集う掲示板に「すごく良かった」などの感想が書かれているのを見たことがあります。

 さらにきわめつけはリヒァルト・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を破綻なく演奏したこと。アンコールに有名な校歌をオーケストレーションしたものを弾いていました。しかし、今述べた曲たち、ちっとも面白くなかった。上手に演奏しました。プロ並みでしょ、とでもいいたいのかな、と思ってしまった。何が足りないか、というと、後期ロマン派の濃厚なオーケストラの色彩的な饗宴、振幅の大きいダイナミックス、とくにフォルテ方向での楽器を鳴らすこと、標題的な音楽の性格付けでも変化に乏しく何を聴かせたいのかよくわからない。音楽への強烈な共感が希薄なのです。

 同様な経験を、数年前のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでモーツァルト特集をやった時に感じていたことを思い出しました。会場中央のロビーにステージが設けられ、アマチュアの団体が交響曲を演奏するのですが、都立の某名門校OB・OGで作っているオーケストラと、半世紀くらいの伝統をもつモーツァルト室内管弦楽団(実は私も20代のころエキストラで弾かせて頂いたことがあります)。年齢層が高いこともあって、後者の方が技術的な破たんは耳につくのです。しかし、長調の旋律に悲しみを載せたり、強弱をたっぷりつけたり、イン・テンポでさっそうと進んでいくなどのモーツァルトらしさの表出では、技術的にははるかに上手くて音も透明感のある名門校OB・OGは足元にも及びません。

 なぜ、こういうことになるのか。
 
 今、大阪などでオーケストラへの公的補助を減らす動きが進んでいます。東京都でも都響の楽員さんが嘱託身分にされ、団員数も減らされたことは記憶に新しいです。古くは、日本フィルがスポンサーだったフジテレビ・文化放送に財団を解散され存亡の危機に立たされ、市民との連帯を模索する日フィルと、小澤征爾や山本直純たちのもとでスポンサーを探し、小澤が振る日本で唯一のオーケストラになった新日本フィルに分裂したことを思い出したりします。

 こういうプロフェッショナルのオーケストラ、東京にも大阪にも多すぎるんだ、淘汰されて当然だという勇ましい声も聞かれます。プロフェッショナルのオーケストラをアマチュア・オーケストラの楽団員さんが聴く、これは(自分がまさにその立場にいるのですが)ものすごく楽しく、かつ勉強になります。響きの作り方とか、ダイナミクスの幅のイメージとか、ボウイングのやりかたとか、情報はほぼ無限大です。

 しかし、実態はどうかというと、アマチュア・オケが難曲を選んで練習する、すると楽団員さんは時間がない。普段は仕事持って働いてますからね。(私もそう。)さらに、6~8回位の練習で本番をこなしているというアマチュア・オケもあるといいます。地方ではプロ・オケが無いので、アマチュア・オケが小中学校の音楽教室を担当していることも珍しくありません。

 私見ではアマチュアは自分の楽しみのために弾くのですが、さらにその先、演奏会に来て下さったお客様にも少しでも楽しんで頂ける境地を目指すことが大事です。そして、自己満足のともすると傲慢な事態をお客様にさらすのを恥じたり、十分に至らない演奏をお聴かせしてしまう場合が多々あることを肝に銘じ謙虚になることが大事です。謙虚になればなるほど学ぶ必要性が強烈に感じられるでしょう。その時、アマチュア・オーケストラの人たちは、プロフェッショナルのオーケストラのコンサートから多くを学べるはずです。演奏でお客さんのイマジネーションを刺激できる場合も増えてくるのではないでしょうか。

 そういうメリットを十分感じて音楽愛好家の範疇に属するアマチュア・オーケストラの楽団員さんがプロ・オケ(の経営)を支える。耳も肥え、楽器を操る一挙手一投足に視線を集中させる雰囲気の中で、プロオケも集中力の高い名演奏で応える、そんな関係が望ましいと思っています。アマチュア音楽家がもう少し社会に目を向け、プロフェッショナルの活動を経済的にも支える方向が広がってくるといいというのが私の考えです。

グルダ・アバド・モーツァルト21番.jpg アマチュアとプロフェッショナルの埋めがたい差は、先日、私が出させて頂いたアマチュア交響楽団の演奏会でも感じたところです。モーツァルトのピアノ協奏曲で鈴木久仁子先生と共演させて頂いたのですが、本番へもっていくときの先生の音楽の仕上がり方がみごと。音楽に対するイメージの確かさがまるでちがう。そうすると、本番が最も意識透明でいい演奏になったのです。触発される、というのはこういうことですね。打ち上げで鈴木先生に伺ってみると、本番に向かうまでのご自分の生活の時間設計を緻密に立てられ、しっかり実行されていらっしゃる。そういう厳しさがアマオケのメンバーにも伝わって(いい)演奏が出来たのだと思いたいです。

行動できずに焦っている人へ [音楽活動]

 私もその一人。しかし、こんなサイトを見つけました(東京ボランティア・市民活動センター)。東京にいることは多くの情報に触れられるメリットがあります。まず知ること。それから自分と被災地の人々がつながる行動が見えてくるはずです。

 http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CCEQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.tvac.or.jp%2F&ei=K4u3TcuEHIeWvAPG3ZWiAw&usg=AFQjCNGruoyn5U4s67xHvR7Gsvatv8Scog
 
連休中、まずいくつかの報告会に行ってこようと思います。
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