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大連(3)続・中山広場に面した古い建物 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 大連中山広場に面した建物群は、19世紀末から20世紀中葉までに建てられたもので、ほぼ間戦期(第1次世界大戦とと第2次世界大戦の間)と時代が重なっています。

 私に中国現代史を教えてくださったT教授の専攻が間戦期の中華民国でした。その講義では当時の大陸での流行歌を歌ってくださったり、毎時間出欠をとる細長い小さなカードの裏側に講義を聴講して考えたことや特に学んだことを学生に書かせ、それを次回の講義で読み上げられたことなどが記憶に鮮明に残っています。先生ならこれらの建物をどう解説してくださるかなあと、ふと思ったりします。

DSCN2524.JPG左・旧大連ヤマトホテル、右・旧英国領事館。旧ヤマトホテルは満鉄が建てた当時の最高級ホテルです、大連のほか旅順、瀋陽などにも作られ、現在でも宿泊できます。大連のヤマトホテルは現在では「大連賓館」の屋号になっていて三ツ星、6000円くらいで宿泊できるとのことです。115室。1914年竣工。南満州鉄道(太田毅か?)の設計

DSCN2548.JPG関東逓信局。松室重光の設計。この建物の向かい側にある旧大連市役所(祇園祭の山車を模した塔のある建物)も松室の設計でした。1917年の竣工。上記旧ヤマトホテルとともに、間戦期の直前、日本の大戦景気を背景にしてお金をかけて堅牢に建てられてています。

DSCN2554.JPG旧東洋拓殖大連支店。宗像主一設計。1936年竣工。1階のアーチ窓にはアメリカの商業施設建築の影響があるといいます。この年は日本が満州国や中国との貿易でうるおい、戦前でもっとも景気が良かった時期にあたります。しかし、貿易が当事国双方に利益と友好をもたらすという発想は日本帝国指導層には乏しく、翌年7月に盧溝橋事件を起こし日中戦争に突入していったのでした。当時アメリカは日本敵国にとって最大の石油輸入相手であり、最大級の輸出相手国でもありました。国際社会を相手にして日本帝国はまだ様々な(戦争を回避する)選択肢を持っていたように思えます。

 大連中山広場で歴史的な建物を見るとおのずと当時の社会についての知識が浮かんできます。ここからもう一歩進んで様々な本をひもとく時間などがとれるといいのですが・・・

大連(2)中山広場に面した古い建物 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 中山広場(ちゅうざんひろば)の「中山」は、もちろん孫中山すなわち孫文のことで、現代中国建国の祖として大陸でも台湾でも記念する地名が街の中央部に見いだせることがあります。

 大連の中山広場はロシアが租借している19世紀末に建設が始まった(ニコライフスカヤ広場)もので、パリの凱旋門を中心に道路が放射状に配された街路をお手本にしています。日露戦争後、大連が日本帝国の租借地になると、建設は日本に引き継がれます。
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旧大連民政局。松田松韻設計。1908年竣工。1922年から大連警察庁舎として使われました。現在では遼寧省対外貿易経済合作庁舎。

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旧朝鮮銀行。中村與資平設計。1920年竣工。朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行の役割をしていたそうです。参考までに、偽満州国では紙幣発行は満州中央銀行が行っていて、一応の独立国である体裁を整えていました(大連は偽満州国の領土ではありません)。現在は中国工商銀行大連中山支行。

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横浜正金銀行。妻木頼黄・太田毅設計。1909年竣工。3連のバロックドームの屋根が特徴的。中山広場近代建築物の代表例のように紹介されることも多いようです。現在は中国銀行遼寧省分行。なお、日本の横浜市中心部にある旧横浜正金銀行本店(重要文化財)は、神奈川県立博物館として使われています。

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清国大清銀行大連支店。1910年竣工。辛亥革命での中華民国成立後の1912年からは中国銀行大連支店。フランス風の3連の屋根が印象的なルネサンス風の建築様式とのこと。現在は中信銀行中山支行(最近まで中信実業銀行と称していた)。

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旧大連市役所。1919年竣工。真中の塔は祇園祭の山車をイメージし屋根の破風が日本風につくられているとのこと。上から見ると建物の配置が片仮名のワの字に見えるそうです。現在は中国工商銀行大連分行。


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イギリス領事館。現在の建物は新中国になって再建されたものらしいです。清岡卓行の『アカシアの大連』によれば、太平洋戦争開戦の日に大連中学の生徒が領事館のユニオンジャックを引きずりおろして気炎を上げた事件があったそうです。軍国少年を再生産し続けた戦前の教育。そして、これらの建物も日本の侵略が前提となっていたものであることを再確認したいです。


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大連人民文化クラブ。1000人収容のコンサート・演劇などのためのホール。1950年にベラルーシ人ナシェクが設計。これは人民共和国とソ連が近かった時期の遺産です。破風にキリル文字。玄関の垂れ幕は催し物の案内でしょうね。




大連(1)広い大連に入る~路面電車 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 この旅行は4泊5日で、初日と3・4泊めが大連だった。旅順から東に車で一時間半、大連に入ると路面電車が見えてきた。ときに高架線になっている。2両連結のトラムが走っていたりする。一方日本時代のものかと思わせる車両も走っていたりする(写真

 この路面電車は日本が租借していた時代に港や現在の中山広場周辺あたりから敷設したものであるが、現在では極めて広い大連特別区に路線網が広がっている。

DSCN2522.JPG 以前、旅順・大連は、いまではくっついて旅大(リュイター)というのだ、と習った記憶がある。現在では大連特別区になっていて、この数年で人口が80万人から600万人に増えたという。面積は栃木県くらいあるらしい。

 こういう光景や情報を見聞しながら、畏友PHD.エディンバラ氏からもらって旅行に携行してい文庫本た、清岡卓行の『アカシアの大連』の内容を思わないわけにはいかなかった。清岡は私の父の世代にあたる詩人、作家で、私の父が戦前、中国にいたということもあって、印象に残る文章が多かった。

 清岡は路面電車に触れて、「それが日本の侵略を前提にしたものであって」という指摘を忘れない。大連には日本時代の建造物がたくさん残っている。ほとんどそのつど清岡は丁寧に日本の侵略について触れる

 さらに、大連がロシアの租借地「ダーリニ」だったころの市長、サハロフが日露戦争に際して日本の攻撃を逃れるために「ダーリニ」を徒歩で後にする苦しい場面。これが大連の広い街と、路面電車が延々と街の要所をつなぐ光景の裏側に見える。

 重層的な旅。それは文学の力が大きかったのかもしれない。
 

旅順(4)旅順駅 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 

DSCN2382.JPG今年、旅順は外国人にも全面解放され、観光ビザで入国した外国旅行者が自由に歩き回れるようになった。旅順は軍港だから、当然軍艦も停泊しているわけで、それも見られるわけである。 

 旅順の入口は狭く、湾の奥が広いため、日露戦争でロシアからこの地に来たある将軍が、「大連を軍港にしたほうがよかった」と言ったという。ロシアは南下政策から不凍港を求めており、この黄海と渤海湾に挟まれたリャオトン半島先端の港の租借はなんとしても譲れないと考えた。そこで日清戦争で日本が清から租借した時も干渉し(三国干渉)権利を奪い返した。ロシアは軍事力こそ直接行使していないが、もちろん強大な権力・軍事力・国力を背景に、租借や租借地の返還を迫っているわけである。

 強大な軍事力に立ち向かう沖縄、4月25日、9万人が結集した普天間基地移設を求める県民大会を思い出した。歴史は決して強大な権力を外国で振い続けられることを教えていない。それは帝政ロシアにしても、日本帝国にしても、合衆国にしても同様なはずである。

 しかし、文化財は残る。写真はロシアが建設したロシア正教風の屋根をもつ旅順駅。

 

旅順(3)水師営会見所 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 徴兵で戦争に駆り出された人たちが、劣悪な環境に置かれるのを目の当たりにできるのが、ここである。

DSCN2381.JPG 水師営は地名。メインの広い道路から直角に折れて団地風の建物の間をすこし行くと、旅順の戦いの終止を、酒を酌み交わしながら調印した建物に出る。ロシアの将校たちと日本帝国の将校たちがニレの木の根元で酔っ払った顔で写されている写真をご覧になった人は多いだろう。そのニレの木も接ぎ木して庭に残されている。屋根には草が生えている。日露戦争当時、ここは野戦病院として使われていた。もちろん接収されて。

 最近まで劉さんという農民が住んでいた10畳くらいの部屋が3間ある横長の建物である。これを日露戦争当時の姿に復元し、中学生などが歴史を学ぶ現場とし日本からの観光客も呼び込もうというのである。現に満鉄の所蔵品を売る店が併設されており、私も関東軍の軍人が使用した満鉄の腕章と、満州国中央銀行が発行していた紙幣をかなりの額を出して買った。旅順・大連の古い建物を写した写真集も220元(=3300円)で買ったのだった。

DSCN2377.JPG 乃木大将とステッセル将軍の会見に使われた椅子つきテーブル。ばかにテーブルの丈が高い。これは手術台として使われていたものを会見用のテーブルとして使ったためである。テーブルの面には大きな漢字がいくつも並んでいて、いつ、どんな内容の会談があって・・・という内容が墨書してある。現在でもかなり明瞭に読める。椅子は画面右側の乃木大将が座ったものと左側のステッセル中将が座ったそれとでは高さが違う。勝者が敗者を見下すためのしかけという。日本人とロシア人の体格差を考えてのことでもあったらしい。

 野戦病院の手術台・・・ここに寝そべった兵士は、隙間から空や草の根っこが見える、天井のない屋根を見上げながら、激痛に耐えたことだろう。ここも戦争の実態を伝える。水師営会見所の壁には中国子どもたちが社会科見学に来て学んでいる様子も写真展示されていた。中国の子どもたちはさらに侵略されていた地域の歴史を学ぶ。重い場所である。

旅順(2)203高地 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

 旅順の203高地。日露戦争最大の激戦地である。日本兵17000人の命が奪われた。日本兵は206mあったこの山を最も急峻な方向(画面左側)から上っていったそうで、206mあった山が砲弾で3m削られてしまったというのだから、無謀極まりない。国権が人権に優先する社会の姿を見せつける現場に立って改めて戦慄を覚える。戦争の実相を現地で知るのは重い体験である。
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 乃木希典(のぎ まれすけ)大将は、この旅順の戦闘で次男を戦死させた。戦後砲弾や薬きょうを集めて、画面中央の砲弾のような形の塔を作った。ポーツマス条約でようやく租借地とした旅順に日本帝国軍、勝利の記念塔が残されている。現地の案内板にはこの記念塔が「日本人民を騙し続けた」という記載が。1905年に金属を戦闘の跡地から集めたり建設現場で働いたのは、現地の中国人である。安い日当で酷使されたに違いない。

 画面中央から下へのびる道路は観光客用のもっとも楽な上り坂(1.2km)で、別に自動車で回り道して頂上まで上げてくれる道路もあります(有料・たしか10元=150円)。203高地のふもとでは桜の植樹が行われており、日本より遅い桜の季節に多くの観光客に喜んでもらうのだ、とガイドさんは言っていた。そこからは日露戦争の知識もそれに伴う旅順大虐殺の知識も想起されづらいだろう。能天気な日中友好の花が咲くときは、われわれの想像力が試される時でもあろうか。

旅順(1)川島芳子旧宅 [旅順・大連・瀋陽・本渓]

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 2010年4月4日、最高気温が8度程度の大連空港に降り立った。すぐ西方旅順に向かう。

 旅順の街の中央だろうか、「蕭親王旧宅」の前で不意にバスは止まった。赤く塗った3階建は一見コンクリート造りに見えるが、木造モルタル造り。西洋風の入口の柱を見れば木の味わいが確かに感じられる。蕭親王は愛親覚羅家の皇族で、清2代目皇帝ホンタイジの家計だという。

 川島芳子は権力を間近で見ながら生きた、蕭親王の娘である。日本の川島浪速に養女に出された男装の麗人として知る人が多いのではないだろうか。しかし、満州事変・日中戦争という不幸な時代を諜報員として、生き、戦後、漢肝(かんかん・売国奴)として中華民国に射殺されるという、時代に翻弄された女性でもあった。

DSCN2367.JPG その旧宅、育った家がこの写真である。朽ち果ててはいないものの現在では立ち入り禁止。歴史の証言する建物ではある。


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