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『農は過去と未来をつなぐ』・・・読書感想文 [農・食・栄養・人間学]

 福岡県のお役人として、農業指導員を30年以上やり、虫見板を全国に普及させ、減農薬農業の指導の先頭に立ち、ついに定年を待たずに退職。自然と共に生きる百姓をはじめた宇根豊氏。

 氏が考え実践したことをまとめた迫力ある書(岩波ジュニア新書)です。

 高校生向けに書かれていますが、これは幅広い年齢の人が読める本で、中学校の入学試験にも非常によく取り上げられているとのこと。さもありなんです。

 農業にいろいろな「ゆがみ」が見られることはよく知られているでしょう。しかし、それについての私たちの認識は実は漠然としたものではないでしょうか。あらためて、「百姓の子どもが初めて田植えを経験するのは、『田んぼの学校』のようなイベントである」とか、「兼業農家が多いといわれるが、実は現代の農家は『米だけを作る・野菜だけを作る・酪農だけをやる専業』であって、百姓の家で食べるものを自給している場合の方が少ない」などの実例を次から次へ紹介されると、逆に都市生活者の無理解を思わざるをえません。

 農村や農業の実態、なぜ現在があるのかを知らずに、「農業の6次産業化が突破口になる」とか、大規模農業を普及させても、諸外国との価格競争には勝てない」などと言っていた自分が恥ずかしくなります。

 教育にせよ福祉にせよ、資本主義と相いれない部分をもっているとの考えが宇根氏にはあって、随所に批判的な言質が出てきます。「偏っている、と言われるかもしれませんが、宇根さんの考え方が時代の先を行っていると評価してくれる人もいるのです」と書く。たしかに現代は過渡期、パラダイムシフトの時代と言えます。

 そうとらえた時、最終章で述べられる「農村の風景も農業生産物である」という考え方に深い意味を見出せると思います。

 「棚田はなぜ美しいのか」「なぜ稲植えでなく田植えというのか」「なぜ田の中には石がないのか。ぬるぬるしているのか」「なぜ百姓は稲が取れると言って稲を作ったとは言わないのか」などの問いも発せられ、それぞれ考えらさせられます。普段「農」について考えていることが、いかに薄っぺらかを思い知らされます。

 結局、産業は営々と受け継がれる人の営みであるという、当然であるはずの主張に貫かれているのがこの書です。実はイノベーションは90歳を過ぎた百姓たちが当たり前だとして語ってこなかったことにあったりする・・・

 人間形成期の生徒・学生の多くに人たちを中心に、この本を手掛かりに人間の営みとしての産業」に目覚めてくれることを期待したいと思いました。
 

ケーゲルの「ベートーヴェン交響曲全集」 [音楽鑑賞]

遅ればせながら、一部のファンの方々に評価の高いヘルベルト・ケーゲルのベートーヴェン交響曲全集を買いました(米レーザーライト盤)

 まず第9を聴きました。この演奏、よく個性的と評されているようです。たしかに個性的です。朝比奈隆のアプローチ、つまりスコアに全幅の信頼を置いて、すべてのパートを鳴らす、に近い演奏。ただし、ドイツ的明晰というのか、洗練というのか、木管金管の音色にいぶし銀的な美しさがあります。すべての楽章が熱狂から遠い所にあります。個性的という評はとくに第4楽章からくるのでしょう。テンポ設定に唖然とするところがあります。しかし、楷書体の演奏です。

 ケーゲルは爆演系の指揮者だという声をネット上ではよく読みます。しかし、私はこれを爆演とは言いません。

 次に、第7を聴きました。やはり熱狂から遠い透明度の高い演奏です。一方で、フィナーレは飽和的でした。続けて全曲聴かないと解りませんが、ベートーヴェンが確立した「フィナーレ交響曲」の様式を聴き手に気づかせる演奏という基本線がケーゲルにあるのかもしれません。

 「フィナーレ交響曲」というにふさわしいのはエロイカでしょう。ケーゲルの音楽づくりは、テクスチュアが緻密で明確、こまかいアーティキュレーションが丁寧に造形されています。しかも、全体の流れがよい演奏です。第1楽章の最初、2本のトニックが力強く打ちこまれてすぐチェロの朗々とうたう第1主題が出てきます。このとき、和音を刻みながら支えるパートが目立たずによりそっています。旋律を主として、他を従とする機能の弾きわけが、このエロイカを面白いものにしています。ドレスデン・フィルの木管のソノリテを存分に聴かせたいというケーゲルの意図がよく伝わってきます。当然第3楽章トリオのホルン合奏もみごとです。第2楽章の葬送行進曲は遅めのテンポをとった悲痛な音楽に、フィナーレは中庸を得たテンポで変奏曲をわくわくするような性格で仕上げています。奇をてらったところのない、堂々としたフィナーレです。しかし、全曲に渡って細部をいじりすぎたきらい無きにしも非ずで、ケーゲルだからエロイカの巨大なスケールが聴けるかも、と期待すると肩透かしを食います。



協奏交響曲kv.297b(k.anhC14.01)覚え書き(2) [MOZART]

 複数の管楽器による協奏曲~これは協奏交響曲の形でもあります。古典派の時代にかなり作られていて、後の新古典主義が後期ロマン派の最後の方に顔を出すときにも創作されているのですね。それらの曲、楽器をやっている奏者にとっては、結構重要なレパートリーだったり教材だったりするのですが、一般的なリスナーにとっては秘曲。

 アルブレヒツベルガー、クロンマー、フンメル、R・シュトラウスの秘曲を聴きました。知らない曲ばかり。どうなることかと思いきや、音楽の楽しさを存分に味わったアーベントになりました。

 クロンマーとRシュトラスの協奏曲はそれぞれ、名人の技量をたっぷり味わえる曲です。

 クロンマーの2本のクラリネットの曲はアクロバティック、これでもかこれでもかという速いパッセージを唖然とするような指づかいで奏していきます。時代的に19世紀の初頭の作品、ベートーヴェンのような響きのする曲です。山本教授の正確で表情豊かなクラリネットも見事だが、ヴェンツェル・フックス教授のクラリネットにはこれに「遊び」が加わっています。楽譜との遊び。協奏曲はとくに「遊び」の側面が表れやすい曲種のようです。

 そしてこの演奏。音楽ってたいそう楽しいものだということが存分に伝わってきます。同行いただいた感受性の豊かな若い友人も、この演奏を「すごい」と言って喜んでいました。

 R・シュトラウス最晩年の作、クラリネットとファゴットのための協奏曲は、第1楽章がクラリネット重視、第2楽章がファゴット重視、フィナーレは両ソロ楽器を対等に扱うというバランスのとり方で書かれています。さらにバックのオーケストラがソリとリピエノの2群に分かれていて、管楽器のソロと弦のソリで共同作業をする部分もあります。甘美ですが、虚無的なところもある曲。とくにクラリネットの弱音の効果が見事です。新古典主義の作品。

 指揮がハンスイエルク・シェレンベルガー。骨格のしっかりした音楽づくりで、ソロへの寄り添い方も息が合っていました。このベルリン・フィル首席奏者だったオーボエの巨匠、指揮者としてもかなり有能でいい音楽をやる人ですね。藝大チェンバーが爽やかな弦楽合奏を聴かせました。シェレンベルガー教授は、フンメルの序奏主題と変奏ではソロ。山本教授が指揮をしましたが、かっちりした音楽づくりでした。弦楽合奏をピタリと合わせる指揮。

 シュトラウスにはハープが、最初に演奏されたアルブレヒツベルガーのアルトトロンボーン協奏曲ではチェンバロが入っていて、こういう楽器奏者が自前で揃ってしまうのがさすが藝大です。11日、嵐が去った日、藝大奏楽堂で。

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