So-net無料ブログ作成

大作曲家ユン・イサン(1) [音楽鑑賞]

20世紀の大作曲家ユン・イサンの作品ばかりを取り上げた「藝大創造の森」を聴いた。

 誰の音楽とも違う音楽。

 東洋でもない、西洋でもない(というかまぎれもない西洋音楽と聴こえた)その融合とも呼びたくない、作曲者の内面を追体験する時間を持った。武満徹のことばをかりれば、樹木の音楽というより草原の音楽に傾いている。でも語方や形式感、使っている音階西洋のものだ。

 美しい瞬間をいっぱい持った音楽!響きそのものが面白い音楽。

 とっらわれのない音楽。

 心に響いてくる音楽。ざわめきとうごめきと叫びと痙攣にあふれている音楽。もう一度聴いてみたいと思わせる現代音楽。

キトラ古墳壁画 [歴史]

 漆喰に描かれた図の劣化がひどく、100枚以上のパネルに分解して修復をし、明日香村にまた埋め戻されるというので、短期間、県外では最初で最後の公開。それではと、東博まで足を運んだ。

 金曜は夜8時までの開館である。に、かかわらず、午後4時30分前に東博に到着したら50mくらいの行列で、約30分弱待ち。いつかの大徳川展で雨の中50分待たされたにくらべれば楽(苦笑)。高校生もずいぶん来ている。いいことです。

 壁画実物の前でも20分ちかく行列で待たされる。さらに、表敬館での関連展示も見て6時ころ行列を見てみると100m近くになっている。東博の人の話では、「今後は黄金週間に入り、会社帰りの人たちも多く見に来られるので一層混むのでは。たぶん、金曜では今日が一番少ないはずですが、今日は内覧会とも重なっているので、やや人が多いのかもしれない」とのこと。

 これから見ようとする方々の参考になれば。

 ほんものはかなり劣化が激しく、牛の図などはどこに何が描いてあるかわからなかった。

 一番生き生きしているのは白虎。これは古墳石室のふたにあたる石の内側にあって、おそらく白日のもとで描かれたもの。それで筆致が生き生きしているらしい。ほかの絵は石室の中で漆喰を塗ってから、その上から描いたものという。

 会場では陶器製の複製も展示されていて、その精巧さは驚くべき水準である。植物の根が浸食して壁画にひび割れが生じているのもそのまま復元している。画像の見やすさはほんものよりやや見やすい程度である。本物はA3かB3くらいのサイズで切り刻まれているのに対し、レプリカは石室の大きさになっているので、現地の様子が的確にわかる。

 しかし、もちろんほんものの迫力には及ばない。不思議なもので、本物はなにか訴えかけてくるような迫力を持っている。人間の営みを直接受けとめることの重大さを感じさせられる。

 展示の最後に高松塚古墳の壁画復元も展示されている。キトラ古墳は高松塚より少し前のものと推定されているが、この短時日の間に死生観の転換が起こった(伝来した)ようで、高松塚では12方位に神獣は描かれていない。そのかわり飛鳥美人だ。キトラでは獣面人体の十二支の神獣が描かれている。

 西安郊外の唐代蔚徳大使古墳の石室に至る隧道一面に大きな人物群衆図が描かれていたのを思い出した。このころになると殉死の強制はなくなり、壁画を描くことで死後の守りを確保しようとしたのである。ただ唐と倭国、国力があまりにちがう。壁画の大きさは比較にならない。

 キトラ古墳は現地の人たちのその土地の呼び名からきている。高松塚は墳丘の上に松が枝を伸ばしていたことからの名である。ともに藤原京の朱雀通の南方向の延長線上にあって、この線上に天武・持統稜もある。被葬者は皇族であろうと考えられている。墓誌がないので、骨や歯は石室から出てきたが、わからない。

 作者もわからない。朝日新聞では、日本書紀にも名前の見える渡来系の絵師、黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)を最有力候補としていた。図録34ページに文化庁文化財課の筒井忠仁氏が、「朝廷で地位をもった官職にあった人が」、までは書くが、「具体的な名前は特定できない」としている。

 朝日の記事は大衆迎合的な匂いも強いが、白鳳期、大陸の影響が強いことを再確認できる企画になっていることを示している。

チョコレート治療???のすすめ???または学習観の転換 [教育]

 Mさま 

 お元気ですか。

 多くの患者さんを見ては、治療方針や治療の進捗を確認するカンファレンスに追われ、家に帰れば学会発表のスライド作成。[
 
 医食同源]と言ってはせっせと料理教室にも通う君。優秀な人の転換の良さに驚いたり、時間をどうやって生み出しているのかといつも不思議に思ったりしている。

 そういう時間のやりくり名人の君でも、先日の「ためしてガッテン」を見る暇は作れなかったのではないだろうか。テーマはチョコレートだった。全然知らないことばかり。君の病院では患者さんの治療にチョコレートを使っているかい。まだ全国の20の病院で処方されているだけと番組では言っていたから、先進治療に熱心な君の病院でも意外に使っていないような気がしている。

 抗菌作用があって、傷口が全快するのに1週間かかる患者さんが4日で全快したと医師が語る。内臓の傷もチョコレートを摂取することで早く癒えるのだという。治療の経過で食欲の進まない患者さんの栄養補給に、鼻からチューブを入れて胃にチョコレートを流し込んでいる場面も出てきたのには驚いた。僕の胃に穴があいて医が血だらけになったときの治療では、ずいぶん長く点滴、流動食が続いた。チョコレート治療をやってほしかったな。

tokyo_medical%20plant17_mカカオ豆.jpg チョコレートはカカオ豆から作ることは誰でも知っている。カカオの実は、いつか君と行った東京・小平にある東京都薬用植物園の温室で、その大きな赤い実を一緒に見ているね。しかし、その中が、白いねばねばした果肉と種子(いわゆるカカオ豆)になっているのは、この番組の映像ではじめて見た。それを一緒にして寝かせておくと豆が醗酵してくる。これを焙煎してチョコレートの原料とする。チョコレートは発酵食品であったとはこれも驚きだ。

 バレンタインの日に事務員さんや看護師さん、薬剤師さんや患者さんにチョコレートをあげて、ホワイトデーに君がマシュマロをお返しでもらう話は以前に聞いた。その時にあげる手造りのチョコレートだが、油が分離してしまい、チョコレートがバカに硬かったりぼそぼそしてしまうのが君は不服そうだった。ぼくには「こうすればうまく作れるよ」などという知識は無いので、ほぞをかんでいるしかなかった。しかし、番組を見て、「もしかしたら番組内容を伝えることですこし力になれるかも」と元気が出てきた。

 チョコレートは結晶である。溶かす温度が28度から31度が最適であって、番組では湯せんではなく、ドライヤーを板チョコに当てて溶かしていた。そこに板チョコの一片を細かく砕いた結晶の「種」または「中核」になる細かいかけらを入れる。そしてもう一度温度を上げて、それから型をつくる。結晶がキレイに出来るとチョコレートが口の中で溶けるとろける感が絶妙になるという。温度管理をしないと結晶は大きく発達せず、触感もボソボソになる。温度と大きい結晶をつくる二点がポイントなのだ。

 驚くのはまだはやく、この番組も攻めに攻めると笑いたくなった。イチゴとサキイカをチョコレートに乗せる、魚肉ソーセージを乗っける。ちくわを乗っける。

 それらを食べた志の輔、山瀬まみらのメンバーが「おいしい」を連発。

 数式や専門用語を使わないで科学の世界にいざなうのは難しい。それを驚きの連続で構成したのはなかなかのものだった。驚きの連続とか今までの観念がひっくりかえったというのは学習にとって肝で、これを教育学では学習観の転換といっている。番組ではこれをたたみかけるようにやっているのが、僕にはおもしろかった。

 君の病院でもやってみないか?君の病院の栄養士さんに提案してはどうだろう。

 またしても例のおせっかいで申し訳ない。激務に負けず元気で活躍して下さい。  ケリー拝

吉田秀和『フルトヴェングラー』(1) [音楽鑑賞]

 吉田秀和の書いたフルトヴェングラー関連の文章が、吉田秀和の生前に河出文庫にまとめられて出版されている。氏自身によるあとがきもついている。

 吉田秀和のフルトヴェングラー評の文章では、ワーグナーのトリスタンをパリで聴いたときの描写「左手を高く上げるとオーケストラは陶酔のなかにすすり泣く」が際立ってよく知られ、よく引用される。

ad6y29r8.jpg 吉田秀和のこの批評を私はすでに高校生の時、家にあった『藝術新潮』に連載されていた記事で読んでいた。そこには整然と並んだベルリンフィルを体をそらして指揮するフルトヴェングラーの写真も添えられていて、同じ記事にあった「儀式を執り行うような」厳粛な雰囲気をも感じたものだった。当然、吉田秀和が書いている演奏~当然それは今となってはディスクを通して聴くものであるが~はどんなものだったのかをこの耳で確かめたくなる。

 吉田秀和の文章は読み手にそういう再創造に参加したいという意思を持たせるのがひとつの大きな特徴ではないだろうか。それは、この河出文庫版『フルトヴェングラー』を読んで、とくに吉田秀和が「フルトヴェングラーは推移の名手」であることに何回も触れている点からも導ける。

 吉田秀和はフルトヴェングラーが細かくテンポを動かすのをレコードで聴いて煩わしく思う時があると書いている。しかし、実演ではちがった。テンポは音楽の生起の仕方とともに変わるので、生命を持ち、強い必然性を持つのだ、とも言っている。

 とくにベートーヴェンのエロイカ第1楽章展開部について分析している文章。ここで、フルトヴェングラーのアゴーギグに秘められた秘密の世界が白日にさらされる。要は和音進行、和音が曲の進行の中で与えられている機能とテンポが密接に関係し合っているとフルトヴェングラーは理解しているのだ。

 吉田秀和はこういう機能和声が曲の中を生きて生成していくのをとらえる聴き方というものを、フルトヴェングラーの演奏から学んだのだと書く。

 ここに大変高度な、専門家の耳で音楽を聴くとはどういうことかの一断面が示されている。音楽を聴きたいように聴くのではなく、対象をあるがままに聴くのが音楽をわれわれのものとして聴く聴き方であろう。とすれば、この吉田秀和の提示するテンポと楽式や転調・和声進行を注意深く聴きとっていくやりかた。これを、自分なりにベートーヴェンのエロイカに限らず、実践したくなるのではないだろうか。

 そして私は1947年5月25日、フルトヴェングラーが復帰したティタニア・パラストでの「田園」を聴いた。転調があっても比較的テンポの動きが少ない。しかし、やはり展開部で主旋律が低音に行っているときに、ヴァイオリンが長い音符でオルゲルプンクトを伸ばしに延ばす。これがじつに印象的に提示されている。

 こういう理知的な面、展開部での変化つまり推移を捉えて聴いていくこと。今後フルトヴェングラーを聴く課題を発見した思いでいる。

悲愴覚え書き(4)~ヨーゼフ・クリップスの場合 [音楽鑑賞]

 この春、スイスの名門、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団がディヴィッド・ジンマンに率いられて来日しますね。ピリオド奏法を徹底させたベートーヴェンの交響曲全集で一躍世界的な旋風を巻き起こしたこのコンビ、伝統をかなぐり捨てた名門オケとのキャッチ・コピーも時折見かけます。

 もう今から半世紀も前の録音で、ウィーンの名指揮者ヨーゼフ・クリップスがこのチューリッヒ・トーンハレを振って、ドヴォルジャークの「新世界から」とチャイコフスキーの「悲愴」をコンサート・ホールレーベルに録音しています。

 「新世界から」はまろやかな柔らかい音楽づくりで、テンポが速く颯爽としていてスタイリッシュです。ウィーン風の香りをオーケストラ相手に振りまいた演奏と言ってよいのではないでしょうか。

 クリップスのチャイコフスキーといえば、デッカが録ったウィーン・フィルとの「5番」が名盤として知られています。第2楽章のホルンソロがまさにウィーン・フィルの音で奏でられています。で、「悲愴」はどうなのか。

 かなりこの曲の荒々しい悲劇的な面にスポットライトを当てた演奏、といえるのではないでしょうか。第3楽章の勢いと、第4楽章を支配する諦念の対比を聴き逃すのも難しい。

 テンポは「新世界から」同様、速めです。しかし、楽句の終りにラレンタンドのついてる箇所でのブレーキはかなりのもので、そのほかのアゴーギグもかなり明確にギヤチェンジしています。また、弦が十六分音符で上下する動きも厳しく入ってきて荒々しくしかしきっちりとした姿で弾かせています。整然として荒々しいというのは矛盾するいい方のようですが、こういう相反する要素を同時に音として実現するところが、この演奏を名演奏とよびたくなる根拠でもあります。

 また、この演奏(コンサートホール盤のCD;CHS161)ではクラリネットの低音など管楽器のソロの音も明確に録られていて、この名門オケのレベルの高さが味わえるのも鑑賞の楽しみです。低弦の合奏能力の高さもすぐ耳につくことでしょう。

 クリップスの評価はジョン・カルショー(デッカの伝説的名プロデューサー)の酷評「ウィンナ・ワルツの指揮者」というのが尾を曳いて、個性の弱いウィーン風の優美な指揮者と把握している人が多いのではないでしょうか。どっこい「悲愴」ではちがう風貌を見せていますよ。でも、この演奏、現在入手しやすい音源なのでしょうか?でないとすると鑑賞者はだいぶ損をしていると言わざるをえません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。