So-net無料ブログ作成

最近の若い演奏家(2) [音楽鑑賞]

 調布たづくりの中にあるけやきホールまでは、拙宅から2回電車を乗り換えるのだが、30分ほどで着く。今日(2013.10.23)はホールのK列で休憩前まで、休憩後はN列で聴いてみた。後者の方がホール全体に響く音が耳に届いて音楽が豊かに聴こえる。

 音楽が豊かに聴こえたといえば、一番最後に小森野枝さんが演奏したショパンのバラード4番。アシュケナージの名演盤がよく知られていたと思う。豊麗な響きがして、ピアノってほんとに豊かな響きがする和声的な楽器なんだなあ、と思わせられる。それでいて、左手と右手の分離が鮮やかで、クリアに聴こえて楽しい。グレン・グードのような、二人の理性が一つのピアノに向かって集中しているというほど強烈でも極端でもないのはもちろんである。

 桐朋の弦楽器の水準が高いのは周知のとおりで、入江真歩さんが弾いたウィニアフスキーの「グノーのファウストによる華麗なる幻想曲」も鮮やかだった。超絶技巧の粋を極めたような曲。フラジオレットの連続や低いポジションとフラジオレットを忙しく往復するポジションチェンジの精度をとことん追求する場面もある曲。そんな超絶技巧に唖然として聴いていると、有名な「ワルツ」の旋律が伴奏ピアノに出てきている。しかし、ヴァイオリンは最後の最後まで華麗なる装飾を振りまいて終わる。

 伴奏の中迫研君はブラームスを独走した時も感じたが、控え目に弾いて、魅力をみつけてと言っているような部分がある。とてもよく合わせているのだが、もっと前に出て自分の音楽をうんと主張している演奏を聴きたいと思った。

 ほかにラヴェルの「鏡」リズミカルだった。ベートーヴェンの熱情ソナタは歌うような演奏。ブラームスの作品119は夢見るような穏やかな演奏。今日は批評的というより、楽しんで聴かせてもらった感が強い。そういうゆとりのあるおおらかな若者たちが出ていた会だったのかもしれない。

そうそう、大事なことを書き忘れていた。今年はフランス現代の大家フランシス・プーランクの没後50年にあたっている。 篠山春菜さんがプランクが1934年に書いた、スペイン内戦で命を落とした詩人ガルシア・ロルカを追悼して書いたヴァイオリン・ソナタを弾いた。第3楽章でロルカが処刑されるところに頂点を置いた曲の構成を丁寧に追った演奏だった。重い内容の曲に果敢に取り組む姿勢に敬意を表したい。

バレンボイム、ウンター・デン・リンデンの「コジ・ファン・トゥッテ」 [MOZART]

BSでバレンボイム指揮による「コジ」が始まりました。オケの音が格調高く、しかも生き生きしています。

 お、70年代のヒッピーズもたいな格好で二組の男女が出てきた。フィオルデリージとドラベッラはスチュワーデスの設定?ユニフォームめいた朱色のミニのワンピースが、これまた70年代風。ハンモックらしきもので寝ている。あのころ物議をかもし出したスワッピングの設定でやるらしい。

 アコンパニヤートもすごく思い切ったリアリぜーションをしている。これは目を離せそうにないぞ。       

 ローマン・トレケルの哲学者が顔をひん曲げて、美声で「真理」をかたるのがいいですねえ。演出が卓抜。窮屈なお嬢様と、自由なヒッピーズの対比。故意は戯言というちゃばん。デスピーナがヒッピーたちにせりふのカンペを見せている。ああおかしい。かっこ悪いスーツ姿のグエルリモとドン・アルフォンゾの意表をついた格好も楽しい。

 音楽は格調高く、しかも自由。演奏の水準はきわめて高い。管楽器の劇的なうまさが光っています。これは見もの聴きものです。

 ②場になりました。
 
 プールから上がって日光浴をするお嬢様が「私たちの運命は変わってしまった。限りない苦しみが降りかかってきた」とうれしげに歌っています。そこに変装した恋人たちが砒素を仰ぎます。上半身裸だ。①場の最後ではブリーフ1枚になっていたぞ。客席から失笑が漏れていた。恋人のはだかなら見てわかろう物なのにお嬢様たちは気が着かない。

 さて砒素を仰いだふりをして恋人たちが倒れた。心変わりのときが刻々と迫る。オケの刻みが心のときめきを暗示しています。オケうまい。「お姿はすてきね」だって!脈を診ているがわからないとは世間知らずのお嬢さんだ。おおお嬢さんたちがパニックになってきた。そこにデスピーナ扮する医者が出てきた。メスマーの療法が出てきた。この瀉血でモーツァルトは絶命するのに・・・。ここではなんて面白おかしく曲をつけているのか。

 回復した恋人たちがいよいよスワッピングの本番にとりかかっている。でもお嬢さんたちは「名誉が赦しません」って言っている。音楽がすごく生き生きしている。でもこの絡み合いは子どもには見せられないかな?「モーツァルトってこんなにやらしかったの?」って言われるよね。

 2幕になりました。 

 デスピーナが「女性らしく恋を楽しまれては」って挑発している。「女も15歳になったら世の習いを知らなくてはいけません、うそも方便」って、その設定にはあまりにも無理がありますよ。お嬢様はどう見ても15歳には見えない!(これもオペラの面白さのうち)見えないのがミソ。ここで、お嬢様方が大人の恋のアバンチュールに出るのですから。おっつ。アコンパニアートがフォルテ・ピアノになっている。こういうところもこの演奏の心憎いところです。ありゃりゃ。妹の心変わりがお姉さまにも伝播してしまった。ここにつけられた旋律の軽やかさとちょっぴりまじめな感じ。モーツァルトはすごい。

 「届けておくれやさしいそよ風」クラリネットの伴奏が軽やか!でも何が始まるの?舞台はマリファナパーティめいてきているぞ。
 
 おおついに、告白しあう場面になった。この情愛につけた音楽の美しさ!(でもこれが虚偽なんです。人生ってそんなもんかも?)虚実皮膜論。

 フィオルデリージのコロラトゥーラの絶唱。男たちの恋人の心変わりへの嘆きの真に迫ったこれは相当な名演。コジといえば、70年代末まではベームにとどめをさすといわれたものですが、バレンボイム、さすがです。演出が奇抜で面白い。やりたい放題。いいんです。ベームは言いました。「モーツァルトには感傷をのぞくすべての感情がある」と。
 
 しかし、現代のジェンダーの常識からすると男3人の歌う「コジ・ファン・トゥッテ」の部分の扱いには異論もあるでしょう。
 
 結婚式の場面になりました。スワッピング夫婦はヒッピーズの格好をしています。マサイの戦士みたいなのが4人陣幕を支えています。なんじゃこりゃ。
 
 さあフィナーレになりました。ものごとは相対的なもんさ、親しいからこそいたずらもできるし、そこから学びもできるのさと教えるかのごとくオペラが終わります。舞台も壁に吸収されました。虚実皮膜論。
 
 フィオルデリージ=ドロテア・レシュアン(名演) ドラベラ=カタリーナ・マックローアー グエルリモ=ハンス・ミュラー・ブラッハマン ドン・アルフォンゾ=ローマン・トレケル デスピーナ=だにっら・ブルエラ バレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団と合唱団。2002年9月1日ベルリン国立歌劇場ライヴ。

最近の若い演奏家 [音楽鑑賞]

 調布駅前の「たづくり」の中にある「くすのきホール」は500人と少し入れる内装が木張りの室内楽向けと思われるホールである。ここで、地元(といっても最寄駅は仙川だが)桐朋学園の優秀学生による「ステュ―デント・コンサート」があったので、聴きに行った。最近は市民オケへの参加が精いっぱいで、CDもあまり聴けず、生のオーケストラも聴けず、聴こえるのは自分の音程悪く、速いパッセージで崩壊する下手なヴィオラという「恵まれない」音楽環境。これに風穴を開けたかったから。

 8人の出演者中6人がピアノ、二人がヴァイオリン。すでにコンクールで注目されて人たちばかりのようで、音楽は、楽譜への忠実度が高くかった。反面、若々しさで押し切っていく趣がほとんどない。

 といって老成しているわけではなく、最後にブラームスの3番のソナタ(1・4楽章)を弾いた小川恭子さんの演奏は、ひたすらこの音楽をみがきぬき、美しさの極致を追求したものだった。初老のブラームスの憂愁とか寂寥感とかからは無縁だが、品があって、右手左手ともに確かな技巧から、非常に完成度の高い整った音楽。これはこれで一つの見識で、感心した。楽器もいい楽器のようで、舞台上では濁りが無くよく鳴っていて、三又瑛子さんの実にこなれた音楽的なピアノとのバランスもいい。

 惜しむらくはその音がホールに響き渡らない。聴衆の方へ届いてこないもどかしさがある。これはホールのせいかもしれない。前半で演奏した美島佑哉くんのチャイコフスキーのコンチェルトでも同じことを感じたから。

 帰宅してから出演者のことを調べてみた。小川さんは最近のモーツァルト・コンで1位、品格のある演奏と評されたそうである。日本音楽コンクールでは小学生の部で1位。すでに名前の出ている人であった。美島くんもコンクールの常連で、いずれ日本の弦楽界を背負って立つひとりであろう。

 ピアノは多士済々で、それぞれ面白い。

 スクりャービンの幻想曲で岩のような中低音を響かせた犬飼実花さん。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」で旋律線のありかを明示したのみならず上品さが漂う久保山菜摘さん。それぞれ東京ピアノ・コンでの上位入賞者、飯塚の新人コンクールでの優勝者。

 明るい発音で際立った違いをみせた多田羅愛さんがプロコフィエフの第3ソナタを弾き、隅々まで丁寧な演奏で温かい人柄を伝えてきたのは山根知花さん。

 そのなかでなぜかモーツァルトの10番のソナタを選んだ橋本健太郎君。この天才の音楽が異常なくらい他の作曲家のピアノ曲と違う世界に属している。2楽章や各楽章の転調を注意深く聴いていると、デモーニッシュな世界に誘導される。以前、日本の若い演奏家たちが古典の曲を苦手としていることが専門家たちの間で憂慮されたことがあったが、杞憂だったよう、というか、そこからもうかなり長い時が過ぎて、日本の若い音楽家たちは別の段階にいるのかもしれない。

 再来週も同じホールで優れた音楽家の演奏会がある。あえて「若い」の語をつかわなかった。若い世代の音楽のとらえ方が、また10年前とか、20年前とかと異なってきているのをうすうす感じたりもしたのだった。再来週また確かめてみよう。

「リンツ」をホグウッドとアカデミー・オヴ・エインシェントミュージックで聴く [MOZART]

10_1101_01.jpg

  1991年のモーツァルトイヤーの年の10年前に、カール・ベームが世を去った。同じころ、クリストファー・ホグウットは写真に示したモーツァルト交響曲全集の録音を進めていた。白水社から出ていた『モーツァルト18世紀への旅』掲載のインタビューの中で、ホグウッドは「今後のモーツァルトの演奏には2つの種類しかない。相変わらずのスタイルで行くか、古楽器を使って18世紀のスタイルで演奏するかのどちらかだ」と言っている。

 そのころ出た2枚組のLPを早速買って聴いたのものだった。魅了されたが、ではどう新鮮なのかは、よくわからなかった。その後、マリナ―・アカデミーと、ベーム・ベルリンフィルの二つの交響曲全集でモーツァルトを聴いてきた。

 中期からはエルネスト・ブール・南西ドイツ放送の選集、後期6大交響曲はクーベリック・バイエルン放送交響楽団、カザルス・マールボロ音楽祭、シューリヒト、ワルター、スイトナー、セル、カラヤンの音盤などが棚に増えていった。

 先週、渋谷のタワーレコードにたまたま足を運んだら、イタリア盤のホグウッド盤の全集が安く売られていたので、ようやく手に入れた。「2つめのスタイル」をてもとで確かめられるようになったわけである。

 その後、ピノックとイングリッシュ・コンソートなどの古楽系の全集が出て、ホグウッド盤はいわば先駆者的な位置づけになっている、もっといえばすこしスタイルが古いのかもしれないとおそるおそる聴いてみた。

 聴いたのは「リンツ」である。全曲、そうメヌエットさえもすべての繰り返しを励行している。通奏低音にチェンバロが入っている。対抗配置。

 弦の人数はだいぶ刈りこんである。だから、第1楽章で第1ヴァイオリンだけが1音だけ残り、他のパートが沈黙する部分などでは、ちょっと頼りないとも言えるかもしれない。

 管楽器ではオーボエの音が現代楽器と際立って違う。もちろんピッチが低いのは冒頭の音の記憶と異なるのですぐわかる。

 そいうい記述からすでに風通しのよい、各パートの動きがくっきり聴こえる演奏が想像できると思うが、その通り。ヴィオラの動きやセカンドヴァイオリンのくねくね動き回る音型、和声の変化がしっかり示されている。第1・3・4楽章のテンポ設定には意外性がない。しかし第2楽章のアンダンテは、速めで、ロマン派以前のアンダンテはだいぶ速いテンポであったという説に依拠したテンポである。

 学問的な演奏、と言っていいと思う。

 さらに音楽の段落にあたる部分が明示されていて、カラヤンのようなレガートで音楽がどんどん流れていくスタイルと対照的である。

 しかし、音楽が継ぎ足し継ぎ足しのように聴こえないのは、その段落の中にある楽句のフレージングがしなやかであり、一つ一つの音符への表情の与え方と次の音符への受け渡し方、つまりアーティキレーションも柔軟であるからだ。

 かつてこの演奏を聴いて、ベームのモーツァルトとの違いをあまり感じなかったのは、根本のところにホグウッドもベームも(しなやかな)「歌心」があって、そこに私が共感してたからではないか、と今回聴いて思った。

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。