So-net無料ブログ作成
検索選択

山川『世界各国史(1)日本史』再読・その2;推古朝の評価~ [歴史]

 さきたま古墳群は埼玉県行田市埼玉にあります。埼玉はさきたまと読みます。ここが埼玉の名前の起こりなので、浦和・与野・大宮が合併して新市名になるとき、埼玉と漢字表記することが認められず平仮名表記になりました。

 151文字が金で象嵌された鉄剣が出土した稲荷山古墳もこのさきたま古墳群にあります。この151文字の中に「ワカタケル大王」の文字があって、ワカタケル大王がシキの宮にいた時に、警備隊長としての姓(カバネ)がこの古墳の被葬者ヲワケ一族に与えられていたことも書かれています。

 ワカタケルは『宋書』倭国伝にある倭王武に比定されていますがワカタケルあたりから、ヤマトの王権で王でなく大王と呼ばせる権力が台頭してきたことを物語っています。ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』の雄略天皇と考えられていますが、この雄略天皇はきわめて残虐な人物だったようです。もっとも自分の政敵を排除するのに殺害してしまうというのは、奈良時代でも行われていたわけですが、いずれにせよ強大な権力がないと実行もできないし、政敵殺害後に自らが影響力を行使し続けることもできません。

 ワカタケル大王の時代は前方後円墳の時代で、ヤマト王権の時代です。ワカタケル以前はヤマトや瀬戸内、筑紫などの豪族は横一列に近い関係で、一応大王家が真中に立って各氏族に役割を与えていたようです。したがって、中には筑紫の磐井のように反乱をもって抵抗する勢力も現れてきます。ワカタケルのころからは大王家が武力的にも優位に立つよう力関係の変化が起こってきました。

 豪族・氏族のあいだで優位に立つためには、財力と軍事力が必要だったでしょう。また大陸の先進的な技術をもっていることも重要でした。ここで渡来人の果たす役割が大きくクローズアップされます。最も多くの、しかも優秀な渡来人の集団を抱えていたのは蘇我氏でした。蘇我氏は大王家とも縁戚関係を結び、大王家も蘇我氏と共同して自らの権力を伸長させようとします。

 その時期が推古朝にあたります。内外の危機の時代であったともいえます。国内では豪族間の権力争いが頂点に達し、特に蘇我氏と物部氏の対立が激化しました。テーマは仏教の受容をめぐって、です。外からの危機は、分裂していた中国が隋帝国により統一されたばかりか、隋は侵略的な傾向をもっていました。朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとしましたから、百済・新羅・高句麗が鼎立していた半島の情勢は一気に流動化します。

 国内では天皇の後継にふさわしい人物が幾人かいたようですが、それらの皇子を押し立てて争っている場合ではない危機が隣り合わせにあった。こういうときは争いをさけるために中継ぎ的な大王を立てるのです。こうして擁立されたのが推古でした。

 推古やそのおい厩戸皇子は蘇我系です。蘇我氏の頭首は蘇我馬子です。この三者が権力の中心になり、大王家を頂点とする、大陸の身分制や法による合理的な支配にならった政治改革が進められるのです。これが冠位十二階と十七条憲法の制定であり、それは同時に氏姓制度の解体を意味しています。ときあたかもその7世紀初頭、巨大な前方後円墳の造営はぱたっと終わりを告げます。このことは全国の首領連合としてのヤマト政権が、大陸風のヒエラルキーをもった政権へと変貌をとげていくことを示してもいるのです。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。