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最優秀の受験生になるには:国語編12章 [教育]

(1)
 大手塾月例テスト偏差値60前後の現在5年生(多くの塾ではちょうど新年度が始まったありなので塾では6年生)の少年がいるとします。塾へ行かずに最上位の男子中を受験する力をつける方法を考えてみたいと思います。通っている学校は、私立の小学校で、付属の中学がなかったり、付属の中学は女子校なので男子はほとんどが受験生という首都圏では珍しくないところとしましょう。こういう学校では、塾のテキストを配布して補習授業をしているのが普通です。これに四谷大塚の通信くらぶか家庭教師を併用しているとの仮定にしておきましょう。

 性格は素直な、いわゆる地頭もよい子としておきます。これらを仮定として、駒東、麻布、筑駒などを突破するためのあと一年をどうするか、を考えてみたいと思います。
(2)
 彼がもっとも苦手なのは国語とします。大手塾の月例テストで偏差値60を割ってしまうこともあるとしておきましょう。
国語の精髄は「わかればとける」と私は考えています。文章の内容が理解できればそれにかかわる読解問題や記述問題は解けるという意味です。ですから中学受験の国語指導は要は「筆者の文脈に即して自分の言葉で(筆者のことばで理解できるものはそれでよい)理解するか」ということと私は考えています。
(3)
 超難関中学の国語入試問題は、文字数にして6000文字、つまり新聞1面分の長文が2題、50分程度で解くように作られています。30分で新聞一面半分を読み、読解問題を考えたり、設問が指定すつ場所を探したり、自分の言葉でまとめ直したりする必要があります。まず速読の力をつけることが必要です。そのために新聞を毎日最低1面読みましょう。手掛かりとしては、投書蘭からはじめるのはどうでしょう。
(4)
 冒頭(2)の主張とも重なりますが、文章を読むときには必ず辞書を傍らに置きます。わからないことばはすぐ調べるのです。さらに問題集の『語彙1800』のような受験用問題集に毎日取り組むのも有効です。特に和語の知識・語彙が小学生では経験的に弱いので意識する必要があります。またやりっ放しでなく、ときどき見直して、あやふやな語彙にはラインマーカーをつけておくなどの工夫も必要です。
(5)
 読書量、知っている文章の経験値を増やすこと。簡単に言えばちょっと背伸びをした本について読書量をうんと増やしてほしいです。好きな内容の(の大人向けの)本を一気に読んでしまった、という体験を重ねることが、入試問題への速読にもつながります。 6年生の優秀な少年少女なら岩波ジュニア新書レベルの本はどんどん読破して行けます。何を読んだらよいかわからない場合は、塾のサイトで「入試に出た本」を何冊も紹介しています。これを片っ端から読むのも一つの方法です。さらにこれに興味がともなっていれば言うこと無しです。
(6)
 今までに述べたのは毎日の基礎栄養部分です。これにトレーニングが加わります。まずは知識演習です。6年当初からたとえば四谷大塚が出している『四科のまとめ』の知識編を毎日量を決めて一年がかり(12月はじめころまで)で制覇します。漢字の訓練もこのテキストを使ってやってしまいます。週に1度くらいそれまでに取り組んだ部分から問題を25題くらい抜粋して小テストをしてあげます。
(7)
 次は、読解のトレーニングです。入試の読解問題は大きく分けて、同義内容をさがすものと、原因または結果をさがすものの2タイプに分かれると私は理解しています。同義内容を探すには、問いで尋ねている部分と同じ話題の部分を探すテーマ性の把握力が必要です。また文脈の構造(形)を分析するコツを身につけることも必要と考えています。
(8)
 原因結果をさがす、というのは、大きくとらえると、場面、現在起こっている事件、今までの心情の流れが原因→現在の心情が結果、という文学的文章でよく出題されるタイプもこれにあたると言えます。しかし算数や理科の得意な子だからといって、理詰めの読解がすんなり受け入れられるほど単純なものではないのです。指導者の柔軟な対応が必要でしょう。感性的に物語文が「お話し大好き」的な感覚で受け入れられる子どもも多いのです。
(9)
 今の(7)(8)は塾に通っていれば毎週90分×2回くらい授業で扱ってくれます。そして復習をして身につける努力が課題になります。ここは受験少年にとっては試練です。しかし、この(7)(8)が入試の大半を占めるのです。冒頭から述べてきたこともすべてこの(7)(8)で花を咲かせるためのものです。そして辞書を傍らに置くこと、解らないことばはすぐ調べることです。
(10)
 さて、この(7)(8)(9)を独力でやって行く、あるいは週1一回家庭教師について勉強していくにはどうしたらよいかです。これはヴァイオリンやピアノのレッスンに通うのと似ていると考えるのが良いのではないでしょうか。つまり、家庭学習である程度(学習者が考えるなりの)の完成に近づけておくのです。先生は、語彙の練習状態や問題が解けた状態を確認します。そして、その日の課題曲(課題となる文章)を1題一緒に取り組んで、読解のしかたや、文章の分析方法を学んでもらうのです。そのさい、その日の課題文章については、必ず、意味が通るように音読しておくことを課します。先生に見せる課題が、親御さんにも見せてあげられて、親御さんが褒めてあげられるとさらにいいですね。

 読解問題の分量ですが、自学自習の分として3日で一題。一日は音読だけに充てます。3回読んでもいいです。設問は読みません。勿論解答解説を見るのもダメです。翌日に設問を解きます。答合わせは必ずします。三日目は復習と解き直しにあてます。二日目にこれが終わったら、三日目には200字詰め原稿用紙を使って、文章の要約文を作ります。はじめは大事と考えられる文章を本文から抜粋して箇条書きに書くのでもかまいません。さらて家庭教師の先生と週1回扱うとすればさらに1題。合計週に3題じっくり取り組めます。

 四谷大塚の通信くらぶを使う場合は、別途考えなくてはなりません。四谷大塚のシステムのいいところは毎週テストがあって、強い意志があれば学習をルーティーン化しやすいことと、クラス所属が月ごとに変わりますから、競争心と、努力の成果が報われた思いで自分を励ますことができます。

 教材を広げるのはあまり感心しませんから、通信くらぶをメインにするならその方向で、家庭教師の先生にも協力してもらうのがいいでしょう。

(11)
 最後にフォローについて述べます。(10)の項目で自学の三日目に述べたことと重なります。読解問題を解いて×になったところの扱いです。ノートを2段にして、下の段に正解を解答を見て頭に入れ、次に解答を見ないで書いておく。これは最優秀児童への対処として甘いかもしれませんね。知識系の他教科や算数なら「解き直しノート」の作成が絶対有効と考えますが、国語の場合は難しいです。専門家の方のアドバイスを頂けると有り難いです。
(12)
 大事なことをわすれていました。記述力の養成です。記述力は国語の力の完成段階に相当します。6年生受験生の新学期が始まった段階では、ともかく書けることをほめる、字の間違いや語彙の誤りだけにとどめることからはじめましょう。塾で使っている問題集やプリントの解答を読んで、どこがいい点かを評論させるのも自分が書くへのこやしとなると思います。

(補章)
あまり細か読解力陽性の中身を核と、結局虻蜂取らずになりそうなので、上記(7)(8)では、同じ内容(人物の見ているものと表情などもこれにふくまれます)と原因結果に絞りました。

 文脈の繋がり方として、順接・逆接・説明例示・並列添加・対比選択・転換の6通りがあること(これはよく接続後の穴埋め問題で出題されますね)、プロットの運び方として弁証法(単純化すると、正→反→合)に代表される、対比の文脈への意識や把握力を高める指導も当然考えなくてはいけませんね。
 
 こういうロジック系統の訓練がより重要なのか、記述の力の養成が重要なのかは、生徒さんの時と場合の状況によります。きめ細かい指導が大事なのは言うまでもありません。しかし、入試に向けて学力的に自立させていかないと、超難関校の突破は困難です。6年生は思春期の入り口で心身ともに大きく伸びはじめる時期です。子どもの水から伸びていく力をサポートしていくことが大事であること、指導者は肝に銘じておきたいですね。

闘病短歌 [農・食・栄養・人間学]

みぞおちの 痛み半端な ものならず 仕事休みて 横臥しこらえり

よたよたと 歩み遅きに あきれ果て 無理に歩幅を 広げて歩けり

外来に 来たりしはずが 即入院 空きたる ベッドに身をよこたへり

絶食と 絶水安静 告げられて 横たわりつつ 点滴受ける

点滴の 柱に 四つ 薬液の したたるを見て 血は逆さに流れ

静脈の ふくらみ弱く 点滴の 針なかなかに 的射る至らず

不思議なり 朝昼夜の 食事時 食欲わかずに 違和感なしも

友のいう カメラものめよ 早く行け 早期発見 まさにそれなり

点滴の 針外されて トイレ行く 自由の空気 あゆみぞ軽く

病院に 早く至りて 救われぬ 生存率の 数聞き驚く

重湯から 粥の数字が 増えてゆく 治る力よ われにも備わり 

治りゆく 証(あかし)示せる その数値 血液検査 良き値(あたい)示せ 

急性膵炎で 上野のシロクマ 逝けり 我の身代わり なりしか

検査続き 思わず 歌いぬ 検査は続くよ どこまでも

内臓で 倒ると予測 せるものの 目前にあれば 困惑しつも

異常なる 数値下がりて 回復の はずなれども 腹痛収まらず

強力な 胃潰瘍薬 飲みにしも みぞおちの痛み 続きて口惜し

専門語 多くい出来て 戸惑うは 我が身の病名 覚えられずに

仕事の 行き帰りだけにて 精根尽きぬ 愛せる楽器 弾くをあきらめり

Pomp and circumstance [音楽鑑賞]

「威風堂々」と訳している。第1番ばかりが有名。

久方ぶりにショルティがロンドン・フィルを振ったCD(ロンドン盤F26l-29010)を聴いた。

ショルティのイメージって、きわめて厳格な人間メトロノームみたいな、インテンポの指揮者、じゃありませんか?ところがどっこい。威風堂々第1番では、随所に粘りを入れて、大きいフレーズの終わりでは思い切りリタルダンドまでしています。そうじゃないと、この海外に雄飛する植民地大帝国たる大英帝国の巨大さが出ないとでもいいたそう。

 私の手許には、このほかに、珍しく合唱(Land of hope and grolyの歌詞)のついたオーマンディ盤と、本場イギリス(?)の、ノーマン・デル・マー指揮BBC響のCDがある。さて、どんなインテンポの崩し方になっているのかしら。「威風堂々」は軍隊行進曲(ミリタリー・マーチ)だから、あんまりインテンポを崩されると実用的価値がなくなってしまう。

 デル・マー盤には第5番ハ短調も入っていて、この曲はバスドラムのドスが効いていて、いかにも大英帝国の野心を感じさせる。エルガーも時代の子だったということか。

袋田の滝 [紀行]

2014_1026_111413-DSCN4252.JPG紅葉には少しはやかった。10月下旬の四度の滝。火山岩塊の片方が隆起し、その上部を川が流れるのだが、岩盤が固いため、川の浸食作用に勝っている。そこで川は表土を削れず、岩盤の表面を流れ、かくして四度の滝の形成となった。ここはジオパークにも指定されている。

N響C定期11月ノリントンのシューベルト [音楽鑑賞]

 ノリントン81歳。

 藝術とは精神の冒険である。

 ともかくめっぽう面白い演奏会。これが感動的なのかどうかは、いずれ放送があるだろう、その時いろんな人に感想を聞いてみたいと思う。

 当然ノンビブラート。

 コントラバスがホリゾントの前に組んだ3段目の山台の上に、トロンボーンをはさんで一列。コントラバスとホリゾントとの間に5枚の縦に長い反響版が組み立ててある。NHKに勤めていた録音も採る友人の話では、このホール、低音が出ないのが悩み。コントラバスの陣取りかたはウィーン・フィルが楽友協会ホールの最後列にコントラバスを並ばせるのと同じ発想ではある。そして、コントラバスの音が繊細明瞭に聴こえた効果は確かにあって、未完成の開始時に聴衆が固唾をのんで聞き入っている雰囲気もよかった。

 で、未完成は10型!グレートは16型だが、プルトを半分におとして、管楽器を顕著に聴かせる工夫がしてある。どこでそうなっているのかを納得しながら聴くのも面白い。テーマの描き方もちょっと四角四面で、一拍目強調・・・これらな古楽器演奏での流儀で珍しくもないのだろうか?私は面白かったけれど。そしてかなり弦楽器の弓、フロッグからガリガリ、またはフロッグから全球を速めの弓で弾かせる部分が多い。


 さらにクレッセンド、デミヌエンドをたっぷるつけている。これはヴィヴラートのない分、感情表現を打ち出す方途だろう。ノリントンのノンヴィヴラーはピュアトーンというらしい。これは本当に面白い効果で、宇宙の暗い広がりを思い起こさせる。そして木管楽器がところどころに閃光を放ち、これが宇宙空間に燃える恒星のようか効果を出す。こういう雰囲気をメシアンの「彼岸の閃光」で味わったような記憶がある。

 彼岸の音楽。シューベルトの音楽はロマン的というより冷やかで救いのない面がある。彼自身「ぼくは悲しくない音楽なんて知らない」と言った。すると晩年の「未完成」や「グレート」ではそうした救いようのない深刻さが描かれている演奏こそが作品の世界に沿ったものだ、ということになる。ノリントンの演奏はそういう点に気づかせてくれるものだったと、私には聴こえた。

 ノリントンの演奏との出会いは、吉田秀和先生が朝日の記事で、ロンドンクラシカルプレイヤーズと入れた幻想交響曲をとりあげて、いろんな音が聴こえるというので、興味をもって新譜のCDを買った。オフィクレイとかコルネットとか。

 そして「グレート」は言わずと知れたベームの75年来日公演の美演奏こそが決定的と思っている。その考えはノリントンの構築性が鮮やで全曲のテーマ性も明確に打ち出した演奏を聴いたのちも変わらない。

 とはいえ、ノリントンの音楽を聴いて、国安洋先生に音楽学を教わって以来、ずっと課題であり続けている音楽における「あそび」の姿が具体的に掴めたような気もすこし、している。やはりめっぽう面白い音楽を聴いたのだと思う。精神の冒険は面白い。

N響C定期ブロムシュテット指揮で [音楽鑑賞]

 現在最も内容のある音楽を聴かせてくれるのが、ヘルベルト・ブロムシュテットだろうという期待のもとに、デング熱を媒介する蚊のいる心配がある代々木公園前を通ってNHKホールへ。

 ハードボイルドな熱狂。

 聴衆がチャイコフスキーの第5交響曲が終わるや否やブラボーの嵐を巻き起こしているとき、私は今日の凝縮された時間の集積に圧し殺されそうになっていた。

 至極まっとうな、テクスチュアを細かく丁寧に描き出した、音符の意味をよく考えぬいた演奏。オーケストラも優秀。均一性の高い音楽を奏でていた。辛口で、超がつくくらい真面目な音楽。

 モーツァルトの40番が前プロ。12型。クラリネットの入った版。

 この曲もチャイコフスキーも対抗配置。私の座ったLB4の座席からはコントラバスを真横から見るので、旋律とバスが一緒に聴こえて、これも音楽の機能が裸で聴こえるような気がした原因かもしれない。遠く離れた第2ヴァイオリンの音もしっかり美しく聴こえてくるのもさすがN響。

 40番は第2楽章が速い。アンダンテ6拍子だが、早足で歩くアンダンテ。全楽章フレージングガ短め。厳しい雰囲気の音楽となった。

 反復は律義にすべて行っていた。第3楽章の繰り返しは、メヌエットの前半を繰り返し、メヌエットの後半も繰り返し、トリオの前半を繰り返し、トリオの後半を繰り返し。ここまでは定石通り。驚いたのは、メヌエットに戻ってから、前半も後半も繰り返したこと。フィナーレも同じ発想で、展開部・再現部を繰り返した。音楽の構造はこうなっていますよ、半音階がこんなに効果的に使われていますよ、と繰り返し丁寧に教えてもらった思い。

 合奏は見事。甘い味わいはないけれど、N響の合奏能力は高くて、快いし、オーケストラに身を置く素人としては羨望である。

 でもハードボイルド。

 ブロムシュテットのつくる音楽から彼が枯れたという印象は与えられない。矍鑠(かくしゃく)というのとも違う。(88歳の老音楽家なのだが年齢を超えている)。ブロムシュテットは1973年だったかにドレスデンシュターツカペレと初来日して以来何回かきいている。もっとふかぶかとした音楽を聴かせてくれる人ではなかったかしら。今日の演奏は、あんまり人々を幸福にする要素に富んだものではない。しかし、40番にはそれがふさわしかったとの想いもある。音量やクレッシエンド・デミヌエンドなどの解釈を施しているのも音楽の厳しさを志向していたと思われたのである。

 NHKホールで。フォルテシモでもホールの空間に音が吸収されてしまって、はねかえってこない。こんなことは私が言うまでもなくみんな知っていることだけれど。

山川『世界各国史(1)日本史』再読・その2;推古朝の評価~ [歴史]

 さきたま古墳群は埼玉県行田市埼玉にあります。埼玉はさきたまと読みます。ここが埼玉の名前の起こりなので、浦和・与野・大宮が合併して新市名になるとき、埼玉と漢字表記することが認められず平仮名表記になりました。

 151文字が金で象嵌された鉄剣が出土した稲荷山古墳もこのさきたま古墳群にあります。この151文字の中に「ワカタケル大王」の文字があって、ワカタケル大王がシキの宮にいた時に、警備隊長としての姓(カバネ)がこの古墳の被葬者ヲワケ一族に与えられていたことも書かれています。

 ワカタケルは『宋書』倭国伝にある倭王武に比定されていますがワカタケルあたりから、ヤマトの王権で王でなく大王と呼ばせる権力が台頭してきたことを物語っています。ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』の雄略天皇と考えられていますが、この雄略天皇はきわめて残虐な人物だったようです。もっとも自分の政敵を排除するのに殺害してしまうというのは、奈良時代でも行われていたわけですが、いずれにせよ強大な権力がないと実行もできないし、政敵殺害後に自らが影響力を行使し続けることもできません。

 ワカタケル大王の時代は前方後円墳の時代で、ヤマト王権の時代です。ワカタケル以前はヤマトや瀬戸内、筑紫などの豪族は横一列に近い関係で、一応大王家が真中に立って各氏族に役割を与えていたようです。したがって、中には筑紫の磐井のように反乱をもって抵抗する勢力も現れてきます。ワカタケルのころからは大王家が武力的にも優位に立つよう力関係の変化が起こってきました。

 豪族・氏族のあいだで優位に立つためには、財力と軍事力が必要だったでしょう。また大陸の先進的な技術をもっていることも重要でした。ここで渡来人の果たす役割が大きくクローズアップされます。最も多くの、しかも優秀な渡来人の集団を抱えていたのは蘇我氏でした。蘇我氏は大王家とも縁戚関係を結び、大王家も蘇我氏と共同して自らの権力を伸長させようとします。

 その時期が推古朝にあたります。内外の危機の時代であったともいえます。国内では豪族間の権力争いが頂点に達し、特に蘇我氏と物部氏の対立が激化しました。テーマは仏教の受容をめぐって、です。外からの危機は、分裂していた中国が隋帝国により統一されたばかりか、隋は侵略的な傾向をもっていました。朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとしましたから、百済・新羅・高句麗が鼎立していた半島の情勢は一気に流動化します。

 国内では天皇の後継にふさわしい人物が幾人かいたようですが、それらの皇子を押し立てて争っている場合ではない危機が隣り合わせにあった。こういうときは争いをさけるために中継ぎ的な大王を立てるのです。こうして擁立されたのが推古でした。

 推古やそのおい厩戸皇子は蘇我系です。蘇我氏の頭首は蘇我馬子です。この三者が権力の中心になり、大王家を頂点とする、大陸の身分制や法による合理的な支配にならった政治改革が進められるのです。これが冠位十二階と十七条憲法の制定であり、それは同時に氏姓制度の解体を意味しています。ときあたかもその7世紀初頭、巨大な前方後円墳の造営はぱたっと終わりを告げます。このことは全国の首領連合としてのヤマト政権が、大陸風のヒエラルキーをもった政権へと変貌をとげていくことを示してもいるのです。

吉田秀和『フルトヴェングラー』(2)流線形の美と自由「運命」交響曲 [音楽鑑賞]

 今日聴いたのは1943年にベルリンの旧フィルハーモニーで6月30日にライブ録音された『運命』(DG盤)
です。放送用にお客さんのいないホールで録音されたもので、しかも編集で1小節が他の日の演奏と取り換えられているらしいです。

 いま、「運命」を弾いていて、最初の5小節の扱いを再び聴いてみたくなったのです。自著の『音と言葉』で、最初の5小節は全体へのモットーだとフルトヴェングラーが指摘ししているのは、フルトヴェングラーを好んで聴くひとたちはみな知っていることでしょう。

 
 モットーを提示し終える5小節目のDの音を目一杯以上に、伸ばしに延ばし、さらにいったん音楽を切り、非常に自然な八分休止符(!)へと流れていき、その6小節以下は快速テンポで一気に音楽が推進していきます。各楽器間の受け渡しもアーチを描くように淀みなく行われます。流線形の美を見る思いです。

 フルトヴェングラーの演奏に「精神と官能の同居」を指摘したのは吉田秀和先生です。今日の私は、この43年盤に、官能が満ちているとは思わなかったが、天才的な音楽家が旋律美を創造していく現場の感覚を十二分に味わった気がします。

 しかし、このモットー性が一番切実に感じられるのは再現部冒頭でした。

 再現部の5小節は、それまでの快速調からなだれ込むように始まります。停滞を思わせません。にもかかわらず、巨大な壁が現れたような存在感で示されるのです。テンポがあきらかに変化しているのですが、まったく不自然さがありません。これは提示部冒頭でのモットーの提示が迷いなく確信を以て明確に把握されているだけでなく(一小節目1拍目の裏拍のGのアインザッツがあってないとか音が4つ聴こえるとかの形而下(!)レベルの問題ではなく)、かつ聴き手の心の奥にしっかり刻みこまれるほかない演奏になっているからでしょう。

 そして、再現部のモットーに続く部分。ここでのアッチェレランドは凄まじいが、必然を感じさせます。流動性と推進力は素晴らしく、一気にフィナーレまで持っていかれてしまいました。第3楽章でのモットーの出し方も、くっきりしています。この「タタタ・ター」、シンドラーが「運命はかく戸をたたく」と伝えるモットー、これは初期・中期のあらゆる楽聖の作品にあらわれるもので、楽聖の傑作は多かれ少なかれこのイメージとの心理的闘争が見て取れるという指摘があります。「運命」交響曲は全面的な闘争ですね。

 そしてフルトヴェングラーはフィナーレを思い切った造形とテンポで生み出していきます。「バイロイトの第9」かくやの、コーダでのアッチェレランド。これはすごいですが、ベルリン・フィルが一糸乱れず充実した音を作り出しているのにも驚きです。ただし、コーダの最後の最後は大見えを切るような具合になっていて、バイロイトの第9のように駆け抜ける演奏ではありません。ここでもテンポ設定も天才的で、フルトヴェングラーの自由さが作品の内なる声にこたえたもののように聴こえます。

 きわめて充実した演奏で、33分ほどの演奏時間が短く感じられることはいうまでもありません。

山川『世界各国史(1)日本史』~縄文時代再読 [歴史]

 学びて時にこれを習う、また楽しからずや

 山川出版の世界各国史第1巻の『日本史』を再読しています。読み飛ばしていたないしは気付かずに通し越していた記述が目につきます。
 
 たとえば、縄文時代です。「戦前からの4区分に草創期・早期を加えただけの区分になっていて、十分科学的・体系的と言えない」の指摘があります。縄文時代の終わりをどう見るかについても突帯文土器に注目する見方が提示されていますが、これもすっかり忘れていました。縄文期の稲作をどう評価するかについても、本書では、慎重、ないしは保守的な見解を示しています。

 三内丸山遺跡の評価についても、1500年の定住期間を通して500件の竪穴住居の跡が確認できるのであって、「一時期の集落数は20~30軒であろう」とする評価には説得力があります。ともすると縄文時代の大都市的なセンセーショナルな伝えられ方をする同遺跡、学問的に冷静かつ多面的なな見方を振りかえる必要を感じます。三内丸山は縄文時代の交易の幅広さを物語る証拠でもあるのですから。

 縄文時代は定住生活の形で、約1万年続いたのですが、それは食糧が豊富であり、あるいは、森を焼いて、畑作をしていたことにもよります。三内丸山での栗の栽培についても本書では紹介しています。しかし、一方で10000年の間狩猟・採集・小規模な栽培農耕の段階から抜け出せなかったのはなぜだろうかという疑問は当然生じます。本書ではその解答の一つとして自然災害を挙げています。今年の2月関東甲信越を襲った大雪や、夏の広島を襲った土石流。縄文の集落の発展があると見るや、自然の猛威が襲いかかる。

 広島の災害のニュースを見るにつけ、本書の指摘が適切なものと思い起こされます。

八ヶ岳方面強行軍 [教育]

 8月12・13日は繁忙期ということで、JRも駅レンタカーも割引きサービスは一切ありません。小淵沢を19時18分に出た昇りの特急スーパーあずさはがらがらに近い状態です。そのぶん、中央自動車道が渋滞(上野原で27km)となっていました。

 8月12日は台風11号通過の直後なのに前線が停滞して一日雨でした。山梨・長野は内陸ですが、季節風は山がさえぎってくれても、上空に前線が居座られるとダメです。

 八ヶ岳南斜面は、火山のすそ野だけあって黒曜石や水晶が取れる場所です。また湧水の宝庫で、湿地帯や森も広い。(洪水や山崩れも多かっただろう。だから人々は高台に住んだ。知恵ものの集団、縄文人・・・)狩猟対象に事欠きません。そこで古くから、日本人の祖先が住み着いた場所となっています。

2014_0812_081016-DSCN4114.JPG 雨の中最初に向かったのは金生遺跡(きんせいいせき)です。縄文時代中期の遺跡で、壁を設けた竪穴住居が営まれていたと考えられている集落です。また石を円形に囲んだ中央に石棒を置いた死と再生にかかわる祭祀跡が見つかっていることでも知られています(写真参照)。南向きの斜面、裏手の湿地帯は現在は水田です。道路わきの側溝を勢いよく湧水が流れています。

 次に、金生遺跡のすぐ北側にある谷戸城址(やとじょうし)に向かい、城址の裏手にある北杜市考古資料館を見学です。ここは甲斐源氏の山城で、逸見氏が平家討伐に功があったことから栄え、武田家もここから派生したようです。

 この付近では弥生時代以降の史跡はあまりなく、次に出てくるのが平安末期です。気候が寒冷なため、稲作が難しかったためとみられています。

2014_0812_095648-DSCN4136.JPG さらに北に上り、甲斐小泉駅の近くに武田信玄が集落間の水利をめぐる対立を分水枡の石組を作らせて解決したといわれる三分一用水(さんぶいちようすい)を見ます(写真参照)。ここでぶよに首筋を刺され猛烈な噛みちぎられたような痛みに襲われました。 甲斐大泉、甲斐小泉、清里と駅前を探しましたが薬局はありません・・・清里の谷口牧場で応急措置をしてもらい、助かりました。

 谷口牧場を始め清里一帯は、高冷地農業と寒さに強いジャージー牛による酪農から開発が始まりました。敗戦直後に聖公会のポール・ラッシュがこの地に入り、指導しました。その拠点になったのが清泉寮(せいせんりょう)です。ここはさすがに観光客がかなりいて、ジャージー牛による濃い味のソフトクリームを食べています。

 谷口牧場と清泉寮の間に萌木の村(もえぎのむら)があります。ここにオルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」があります。おもに今から100年ほど前の自動オルガンやオルゴールを置いています。SPレコードが出てくるまえの音楽生活の一端が分かります。(ここで、モーツァルトの書いた自動オルガンのためのアダージョが聴ければどんなによかったことか)

2014_0812_145727-DSCN4150.JPG 雨が小やみになったので、八ヶ岳の噴火でせき止められてできた松原湖(写真参照)を経由して、宿泊地白駒の池に入ります。

 翌朝は、晴れあがりました。そこで、この湖を一周(40分)しました。とちゅう川が湖に流れ込む寸前のところに「にう」という白い泡集まった場所があります(写真参照)。ここに来た人は「たいへんだ洗剤が湖に流れ出してしまう」というらしい。実際には山の腐葉土がわき水からの川に流され、岩場で水が渦巻いたり逆流したりするときに、栄養分だけが一か所にたまって析出したものが「にう」だとのこと。「山は海の故郷」と言って漁師の人たちが山に植林をすることを学んだりしますが、山の作る栄養とはたいしたものです。2014_0813_045836-DSCN4157.JPG

 ここから車山高原にひとっ走りです。小学校の移動教室で車山に登る機会も多いようですが、今回は軟弱にリフトを2回乗り継いで山頂までいきました。残念ながらガスってて、八ヶ岳と蓼科が見えるくらい。山は早朝に行かないと雲ひとつない眺望は望めませんね。

 車山の標高は1925mです、ここから一気に佐久盆地の龍岡城五稜郭へ向かいます。この二歩に二つしかないという五稜郭、実は龍岡は城ではなく陣屋です。西洋事情に明るい松平家の岡崎藩主が領地として持っていた信州の飛び地を幕末に本拠地として、西洋式の五稜郭をつくらせました。着工が1864年、完成が1867年。翌年が明治維新。数年後には建物は競売にかけられ、大きな台所だけが売れ残り、学制発布とともに小学校の校舎として使われました(写真参照)。現在でも龍岡城址は小学校になっています。2014_0813_101327-DSCN4184.JPGさて、さすがに佐久は盆地です。暑いです。

 ここから野辺山の滝沢牧場での遅めの昼食に向かいます。涼しい!一番気温の高い時刻ですが24℃。売店ではとうもろこし・グリーンリーフレタス・キャベツ・はくさいつまり高原野菜全部一個100円!ここでは食事も野菜攻めの感じです。

2014_0813_135955-DSCN4204.JPG そして南牧村民俗資料館へ。以前は開拓の歴史展示が主でしたが、昨年、3万年前にさかのぼれる細石刃(さいせきじん)が発見されたことで展示が様変わりしました。そしてその発見されたところは村が買い上げて標識が立ててあるといいます。畑を掘り返すと旧石器が拾えるとも聞きました。しかし、実際行ってみると雑草が生い茂っていて(写真参照)、土を掘り返して見るのは不可能でした。遺跡には真夏に行くもんじゃない。

2014_0813_145843-DSCN4209.JPGさてこうして、縄文→古代末期→近代→旧石器と時空の旅をした締めくくりが、小淵沢駅すぐ近くの大滝湧水です。神社(大滝神社)の社殿の横に大きな木をくりぬいた樋があり、そこから勢いよく水が流れ落ちています(写真参照)。この湧水が人間の歴史を、そして現在を支えていることを学んで、今回の強行軍社会科見学に幕を下ろすことにしました。社会科の先生が同行してくださったので、勉強になりました。どうもありがとう。

 
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